ソニーミュージックは、1970年代を中心に和楽器の新たな可能性を切り拓いたパイオニアたち――山本邦山、沢井忠夫をはじめとする最高峰の演奏家による名演奏の数々や、日本の伝統楽器による貴重な演奏・うたごえを収録したレコードを数多く発売してきました。
このたび、そうした貴重な音源の数々を音楽配信でよみがえらせる新企画『粋凛(すいりん)アーカイブス』をスタートいたします。
和の真髄が息づく珠玉の音源を、どうぞご堪能ください。

ソニーミュージックは、1970年代を中心に和楽器の新たな可能性を切り拓いたパイオニアたち――山本邦山、沢井忠夫をはじめとする最高峰の演奏家による名演奏の数々や、日本の伝統楽器による貴重な演奏・うたごえを収録したレコードを数多く発売してきました。
このたび、そうした貴重な音源の数々を音楽配信でよみがえらせる新企画『粋凛(すいりん)アーカイブス』をスタートいたします。
和の真髄が息づく珠玉の音源を、どうぞご堪能ください。
時代に敏感な若者が集まり、多くの著名なアーティストたちが出演した聖地、小劇場「ジァン・ジァン」で、1973年以降毎月ライブを行い、民謡になじみのなかった多くの若者たちの心を捕らえ、全国に竹山の三味線ブームをわき起こしました。この「ジァン・ジァン」での初ライブから1981年までの、ソニーミュージックにあるすべての貴重な音源をお届けします。
門づけ芸から始まった
放浪の生涯
津軽のボサマの系譜をひき、
土着性に拘泥して洗練された
最后の三味線ひき。
津軽三味線の高橋竹山
その生涯は、日本の芸能史の
これまで光のあたらなかった側面を
明らかにする。
貧しく、眼の不自由な人間が
いかに生きたかの半世紀として
感銘を与える。
一本の弦の振動が心を揺さぶり、
感動を生み、人と人の心を繋ぎ
平和を生む。
人生の有様を鮮やかにし、
平和を音楽で満たす。
その音楽は平和な世界を創り出す。

演奏生活50周年を記念するレコード・シリーズとしてCBS・ソニーから発売されたアルバム第1弾。竹山が1973年12月に東京渋谷の小劇場「ジァン・ジァン」で初めて行ったライブを録音したもの。

竹山が「津軽総合曲」と名づけて演奏した曲に手を加え発展させた「即興曲《岩木》」、そして津軽の代表的な民謡や成田雲竹が作った「リンゴ節」を、竹山が三味線で演奏したものを収録。

組曲として作られたアルバムで、青森県十三村の野外、小湊にあった竹山の自宅で、そして青森市で開かれた50周年記念リサイタルの最後に演奏した即興曲「岩木Ⅱ」を収録。竹山音楽の中の津軽風土とその匂いを感じさせる作品。
津軽三味線組曲<十三潟>
竹山が「民謡の心」を三味線と須藤雲栄の唄を交えて語り、そして雲栄の唄、竹山の弟子で高橋竹与(二代目 高橋竹山)の〆太鼓、竹山の三味線で津軽民謡を収録した、聴きごたえある作品。

二十絃・二十五絃の開発とその演奏者として、また古典だけでなく現代箏曲の分野でも活躍し、国内外で人気と話題を集めた箏演奏家の野坂恵子(二代目 野坂操壽)の二十絃箏と、竹山の津軽三味線の「出合い」による二重奏2曲を収録。また「津軽三味線と二人で」と題して、竹山のひとり語りと、シングルレコードでしか発売されていない「津軽三味線即興曲《津軽》」を収録。

津軽の代表的な民謡「じょんから節」「よされ節」「あいや節」を、それぞれの曲調をもとに竹山と弟子の高橋竹与(二代目 高橋竹山)の二人で、ほぼ即興で音を重ね作り出した二重奏と、竹山の独奏曲「即興曲《岩木》」の1978年バージョンを収録した、竹山の並々ならぬ創作力をうかがせる作品。

竹山がCBS・ソニーで最後に発売したアルバム。これまでの到達点に安住せず、たえず新しいものにつくり直したいという意欲にあふれ勢いを感じる、竹山が72才のときに録音した音源。あらゆる技法を駆使した勇壮華麗な独奏曲「即興曲《岩木》」の1981年バージョンを収録。

津軽三味線・民謡の重鎮、澤田勝秋が1980年に発売した音源。独奏から30丁による大合奏まで、様々な編成で収録した、ダイナミックな澤田勝秋社中の演奏を体感する作品。

1969年にRCAレコードで発売された箏とオーケストラによる抒情歌集。前田憲男のアレンジによる沢井忠夫・沢井一恵の鮮やかな箏とオーケストラのハーモニーをお楽しみください。

1971年にRCAレコードで発売された箏とオーケストラによる抒情歌第二弾。小谷充によるアレンジで、心の奥にある原風景へといざなう箏とオーケストラの演奏をぜひお聴きください。

お正月に必ず耳にする宮城道雄作曲の「春の海」や箏曲で最も有名な「六段」などの名曲を、沢井忠夫・沢井一恵の箏、山本邦山(人間国宝)の尺八で収録された、今では生で聴くことができない必聴の名盤です。

沢井忠夫が編曲した楽曲や、吉沢検校作曲の古今組「春の曲」「千鳥の曲」など、沢井忠夫・沢井一恵の箏、山本邦山(人間国宝)の尺八、宮本幸子の十七弦による、貴重なレガシーを収録した名盤です。

明治43年6月18日、青森県東津軽郡中平内村字小湊(現・平内町小湊)で生まれた。2歳のころ、麻疹(はしか)をこじらせて半失明。小学校も3、4日だけで行かなくなった。14歳のとき、門付けのボサマ(盲目の芸人)の住込み弟子となり三味線と唄を習い、師匠夫婦とともに各地を門付けして歩いた。16歳で独立。三味線を背負って独り、北海道、樺太、東北地方などを門付けして生計をたてた。尺八もひとりで覚え、浪花節の曲師、また民謡の座敷打ち一座に加わり活動をしていたが、戦争でいよいよ三味線が弾けなくなり、34歳で八戸の県立盲唖学校に入学。6年かけて点字を学び、鍼灸・マッサージを習得した。戦争が終わり昭和25年に、成田雲竹の伴奏者として、以後行動を共にする。昭和39年に独立。鑑賞団体の行う音楽会にも積極的に参加し、若い新しい聴き手と出会う中で、津軽民謡の伴奏にとどまっていた津軽三味線に、複雑な技巧と工夫を加えて独自の奏法をつくりあげ、独奏楽器としてひろく音楽の世界につれだした。1973年12月に東京「ジァン・ジァン」で演奏。以後定期的に出演する。ソビエト・韓国・アメリカ・フランスで海外演奏を行う。1998年2月5日、87歳で逝去。
6月18日、青森県東津軽郡中平内村字小湊(現平内町小湊)で生まれた。
本名定蔵(さだぞう)。
1、2歳のころ、麻疹(はしか)をこじらせて半失明。
<1913(大正2)年 青森県は三分作の大凶作>
小湊尋常小学校に入学。3、4日行っただけでやめてしまった。
<ロシア十月革命>
11月、隣村のボサマ戸田重次郎の住み込み弟子となり、三味線と歌を習った。
師匠夫婦とともに青森周辺や北海道、秋田方面を門付けしながら歩いた。
<東京放送局ラジオ本放送開始>
10月、師匠の許しを得て独立。以後、一人で各地を歩いた。
1930(昭和 5)年まで、北海道、秋田、岩手、青森の各地を門付けして生計をたてた。冬期間は青森市の映画館の楽隊に雇われたり、三味線がだめなときは飴売りや大道売りなどをした。
<昭和と改元>
唄会(興行)の一座に雇われ、山形、宮城、北海道、樺太方面を歩いた。また、座敷打ちと称する小興行で村々をまわった。興行のないときは一人で門付けをした。
<満州事変起こる>
3月、岩手県三陸沿岸の村々を回っていたとき、三陸大津波に出遭った。
青森県東奥日報社主催の第一回民謡大会で三味線を弾いた。熱狂的な唄会ブームの始まりとなり、以後毎年開かれたが、それには参加せず、門付けを続けながら、浪花節の三味線を独習した。
浪花節の三味線弾きとして座に雇われ、北海道、東北、信州、関西方面を転々とした。
<日中戦争始まる>
東平内村清水川のナヨと結婚した。
<国家総動員法公布>
中国「満州」地方を浪花節の慰問、興行で歩いた。
<米穀配給統制法公布>
成田雲竹の弟子たちの民謡興行に頼まれ各地興行のほか、東京浅草のオペラ館、大阪浪花座等で働いた。
<太平洋戦争始まる>
4月、県立八戸盲唖学校に入学した。
<満17歳以上を兵役に編入。歌舞伎座等閉鎖。1945(昭和20)年、戦争が終わった>
3月、同校中等科を卒業、鍼灸マッサージの免状をもらった。
成田雲竹の伴奏者として行を共にした。津軽のふるい唄や雲竹の作曲した新曲に三味線の手をつけ、津軽民謡の普及に尽した。雲竹の付けた竹山の号はこのころから名乗った。
日本民謡協会から三味線技能章を受けた。
津軽三味線の独奏だけのLPレコードを初めてキングレコードから出した。
仙台(塩釜)労音の民謡例会に成田雲竹と共に出演。以後、毎年各地労音に招かれて出演している。雲竹はこの年、北海道に移住、引退し、雲竹・竹山のコンビは終わった。
青森県文化賞を受けた。民放祭コンクールで青森放送制作の「津軽竹山節」がテレビ娯楽部門の金賞を受けた。
青森放送制作のドキュメント「寒撥」が、昭和46年度(第26回)文化庁芸術祭賞テレビ「ドキュメンタリーの部」の優秀賞を受けた。東奥日報社の第25回東奥賞を受けた。
青森県褒賞を受けた。12月、東京「ジァン・ジァン」で演奏。以後引き続き定期的に出演した。
青森市で演奏生活50周年の記念独奏会を開いた。50周年を記念するレコード・シリーズとしてCBS・ソニーから『津軽三味線 高橋竹山』(その1)(その2)(その3)を出した。日本民謡協会から名人位を贈られた。
CBS・ソニーからレコード『津軽三味線 高橋竹山』(その4)を出した。4月、第9回吉川英治文化賞を受けた。9月、第12回点字毎日文化賞を受けた。
11月、『自伝 津軽三味線ひとり旅』を出版した。
『自伝 津軽三味線ひとり旅』をもとに、新藤兼人脚本・監督で映画化が決まり、撮影に入った。
映画『竹山ひとり旅』完成。モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品され、同映画祭に参加。モスクワで初の海外演奏。
那覇市で初の演奏会を開いた。CBS・ソニーからレコード「津軽三味線 高橋竹山 1978」を出した。
那覇市に続き、宮古島、石垣島で演奏会を開いた。
2月、「沖縄ジァン・ジァン」のオープニング・コンサートに出演。続けて奄美大島で初の演奏会を開いた。
CBS・ソニーからレコード『津軽三味線 高橋竹山 1981』を出した。
第3回松尾芸能賞の郷土芸能の部で優秀賞を受けた。
CBS・ソニーからレコードの集大成『津軽三味線 高橋竹山のすべて』(5枚組)を出した。勲四等瑞宝章を受けた。
韓国のソウルで初の演奏会。
初のアメリカ公演。ニューヨーク、ワシントン、ボルチモア、アトランタ、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、ホノルルなど7都市で10回の演奏会。
『ニューヨーク・タイムズ』は「まるで霊魂の探知器ででもあるかのように、聴衆の心の共鳴音をたぐり寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と評した。
第8回伝統文化ポーラ賞特賞を受けた。
6月、前立腺肥大症の手術、入院治療のため7月から12月までの公演予定をすべて延期、初めて演奏活動を休んだ。
1月から演奏活動を再開。6月、満 80歳となった。
3月、パリ市立劇場で演奏会。
2月、妻ナヨ死去。
11月、「沖縄ジァン・ジァン」のファイナルコンサートに出演。14年にわたって毎年訪れた同劇場での演奏会が幕を閉じた。
ディスクジァン・ジァンから演奏活動70周年記念ライブの CDを出した。
演奏を再開した1990年から毎年数十回以上の演奏会をこなしてきたが、体調をくずし、この年5月以降の演奏活動を一時中断した。
9月、平内町名誉町民の称号を受けた。
5月、喉頭癌と診断され入院。放射線治療を受けて9月退院。
2月5日、死去。(満87歳7か月)

1937年愛知県生まれ。東京藝術大学音楽学部邦楽科卒業、同専攻科(大学院)を修了と同時に、古典・現代邦楽の旗手となる。1979年「沢井箏曲院」設立。
一方、クラシック、ジャズ、ポピュラーなどへの幅広い興味から、数々のレコード、CDを制作。
1985年ネスカフェ「ゴールドブレンド」“違いのわかる男” のCMにも出演するなど、名実ともに現代邦楽を代表する演奏家、作曲家として活躍。代表作 “鳥のように” “讃歌” など100曲にのぼる作品を残して、1997年4月1日逝去。享年59。

1937年滋賀県生まれ。幼少より父から尺八の手ほどきを受ける。1946年、中西蝶山に師事。
20歳で師範試験登第、都山流尺八の竹号「山本邦山」を名のる。
1958年京都外国語大学英文科卒業後、パリ・ユネスコ本部主催世界民族音楽祭に日本代表として参加。尺八演奏家、作曲家として邦楽界で活躍するのみならず、トニー・スコットと共演した「MUSIC FOR ZEN MEDITATION」が話題となり、以降、ヘレン・メリルや原信夫らジャズミュージシャンとも積極的に共演する。
2005年まで東京藝術大学で教鞭をとる。2002年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
2014年2月10日逝去。享年76。

8歳より箏曲を宮城道雄に師事。1963年、東京藝術大学音楽学部卒業。1979年沢井忠夫と共に沢井箏曲院を設立。
国内外の様々なジャンルのアーティスト達と実験的コンサートを積極的に行い、邦楽とは無縁だったたくさんの人々に箏の魅力を伝えている。
ジョン・ケージとの出会い、ロシア人作曲家、ソフィア・グバイドゥーリナとの共同作業、即興演奏を経て、箏コンチェルトへと発展、2010年佐渡裕指揮による、坂本龍一作「曲箏協奏曲(箏とオーケストラのための協奏曲)」を世界初演など、古典と現代邦楽の第一線で多彩な活動を展開している。

津軽三味線 澤田流家元 1944年11月1日青森県弘前市生まれ。
【津軽三味線界の生きる伝説】
民謡ブームの火付け役となったNHK番組「民謡をあなたに」に初代レギュラー奏者として抜擢され長きにわたり出演。テレビや舞台を中心に活躍する演奏家。
現役最年長の津軽三味線奏者で、津軽三味線界での最高位である「名人位」を受賞。80歳を超えた今でも日本全国を飛び回り、日々音色を磨いている。
門下には演歌歌手の長山洋子(澤田勝姫)がいることで有名。
2021年には青森県知事より「青森県文化賞」を受賞。地元青森への恩返しを胸に今もなお三味線を弾き続けている。