本田路津子
「Rutsuko Honda FOLK SONGS 1970-1975」
スペシャルインタビュー

デビュー曲の「秋でもないのに」は今でもコンサートでは毎回歌うんですよ。 私、意外にそういうサービス精神があるんです(笑)。

── 昨年10月にリリースされた『Rutsuko Honda FOLK SONGS 1970-1975』は、5枚組のCDボックス。5年の活動期間に発表された101曲が収録されています。企画のお話を聞かれたとき、本田さんご自身はどう思われましたか?

本田 本当にびっくりしました。私ね、そもそもCDボックスというものを存じあげなかったんですよ。ソニー・ミュージックダイレクトのディレクター、加納さんがお電話くださったとき、思わず「ボックスって何ですか?」って聞いたくらいで(笑)。

── なるほど(笑)。

本田 前にベストアルバムを作ってくださったのが、いつだったかしら?(編集部注:2008年6月発売『GOLDEN☆BEST 本田路津子』) あれが2枚組でしたでしょう。なのに今度は5枚だなんて……。もうすでに2枚組を持っていらっしゃる方が買ってくださるかな、とか。

── 今回のボックスはコンプリート企画。これまでCD化されていなかった音源も含めて、すべての曲を聴けるのがファンにとっては貴重です。

本田 そうなんですってね。ボックスを送っていただいて、自分でも懐かしかった。今日もiPodに入れて、ずっと復習しながら、ここまで来たんです(笑)。

── 昔のレコーディングを聴き直して、どういうお気持ちが?

本田 別人のような気がしますね(笑)。普段、昔のアルバムを引っ張り出して聴くことはまずありませんから。でも今回、最初の1枚を聴いたとき、自分の声より何よりも、当時関わってくださった人たちの顔がパッと浮かんできて。とっても懐かしかった。歌って記憶を呼び起こすところがありますでしょう。「あれこれと応援してくださったスタッフがたくさんいたなあ」って。ジーンときて涙が出ました。

── 懐かしい人たちと、頭の中で再会する感じでしょうか?

本田 そうですね。1975年に引退してからは、結婚して、主人の仕事の関係でアメリカで暮らしはじめて。ある時期から教会で讃美歌を歌うようになりましたが、こういう華やかな芸能な世界からはずっと遠ざかっていましたので。

── 1980年代後半に帰国されてからは、ゴスペル歌手としての活動がメインになられて。国内外の教会でコンサートを開いてこられましたね。

本田 はい。今回、CDボックスの特設サイトで「本田路津子への100の質問」というページを作っていただいて、リスナーの方がいろんな質問を送ってくださるんです。でも昔のフォーク時代については、本当に忘れてしまっていることもたくさんあった。ですから懐かしい人だけでなくて、時代そのものと再会させてもらってる感覚もありますね(笑)。

── 改めてCDボックスを聴くと、ハイトーンで透き通った声が印象的ですね。若さとひたむきさが、歌にそのまま表れているように感じます。

本田 ありがとうございます。まとめて聴き直してみて、「私って案外軽やかな歌が合っていたんだな」と思いました。年を重ねると歌の表現力が深まるところもあるけれど、どうしても低音・高音が弱まったり、声域が狭くなったりしますでしょう。若い頃から低い声が出にくかったんですが、「あ、けっこうしっかり歌ってたのね」と(笑)。

── そもそも本田さんは、いつ頃フォークに目覚めたのでしょう?

本田 高校生の頃ですね。私は東京オリンピックの年(1964年)に高校1年生だったんですが、その時期からフォークソングが流行りだして。当時は実家を離れて寮生活でしたが、トランジスタラジオでよく聴いていました。好きだったのはジョーン・バエズ。他にもピーター・ポール&マリーとかブラザーズ・フォアとか。ただラジオって、基本的には有名な曲しか流れないでしょ。でもあるとき実家に帰省したら、父がジョーン・バエズの5枚セットを揃えていまして。

── へええ、お父様はもともと音楽がお好きだったのですか?

本田 大正4年生まれでしたが、オペラやバロックなどクラシックが大好きでした。父が家でかけているレコードを、私も子どもの頃からよく聴いていたんです。他にもいろんな分野に興味がある人でね。ポピュラーや映画音楽などもすべて父が買っておいてくれたレコードで覚えたんです。

── それであるとき実家に帰省したら、憧れのジョーン・バエズのレコードが揃っていたわけですね。こちらも奇しくも“5枚組”だったと。

本田 そうなんです(笑)。

── お小遣いの乏しい高校生には嬉しいですね。

本田 本当にねえ。それで「私、これなら歌える!」という感じで。私自身はラジオで流れるようなポピュラーな曲より、いわゆる“バラッド”という物語形式の歌が好きでした。同じメロディーを十何番まで延々と繰り返す、聴いていと眠たくなっちゃうようなやつ(笑)。お姫様と王子様とかが結ばれなかった悲恋ものとか。そういうのを自分で訳して歌うのが好きでした。

── 本格的に歌い始めたのは?

本田 それも高校時代。当時ラジオ関東で、まだ高校生だった森山良子さんが『杏林(きょうりん)フォークカプセル』という番組を担当してらして。良子さんは、私のまる1年お姉さんですが、大好きだったんです。あとはニッポン放送の『バイタリス・フォークビレッジ』。そういうのを熱心に聴いて、だんだんフォークにのめり込んでいきました。その頃は『明星』や『平凡』の付録に歌集が付いていたんですね。そこにピーター・ポール&マリーの曲なんかがいっぱい入っていた。自分でも弾いてみたくなり、3年生のとき月賦でギターを買いました。


『Rutsuko Honda FOLK SONGS 1970-1975』ブックレットより

── そういえば、今回のCDボックスのライナーノーツには、ちゃんとギターのタブ譜が載っているのが素敵ですね。

本田 あれ、いいですよね! 昨今、著作権のクリアとか大変だと思うんですけど。レコード会社の方ががんばってくださいました。

── 歌いたいという思いは、子どもの頃からお持ちだったんですか?

本田 あったと思います。小さい頃から童謡を歌うのも大好きでしたし(笑)。大学に進んでからも、友だちとグループを組んで、文化祭で歌ったりしていました。得意だという気持ちもあったんじゃないかな。でも本気でプロになれるとは思っていなかった。少なくとも口には出せませんでした。それがコンテストに応募してみようと思ったのは、ちょっとしたきっかけがあって……。

── どういうことでしょう?

本田 大学4年生のとき、福岡にいた父親が定年になりまして。子どもたちのいる東京に引っ越してくることになったの。それまで寮生活や妹とのアパート暮らしだったのが、急きょ実家暮らしが決まって。大学を出たら自活しなきゃと緊張していたのが、少しの間好きなことをやっても大丈夫かなって。単純ですけど気持ちに余裕ができたのね(笑)。それで『バイタリス・フォークビレッジ』のコンテストに応募しました。

── 1970年、大学4年生の春ですね。

本田 はい。一次選考のご案内が送られてきたとき、デパートのお洋服売り場でアルバイトが決まっていたんです。で、玄関を出ようとしたら東京12チャンネル(現テレビ東京)から封筒が届いていて。私はニッポン放送に応募したのになぜ12チャンから返事が来るんだろうと不思議だったんですが……後で考えるとそのコンテスト、両社の共催だったんですね。ともかく、その足でアルバイトをお断りに行きました。「頑張ってね」と励ましてもらったのを覚えています。

── それがデビューの契機となる『ハルミラフォークコンテスト』だった。

本田 はい。一次選考、二次選考とあって。本番のコンテストが晴海で開かれました。当時は「スチューデントフェスティバル」など学生主催のコンサートも多かったですし。それこそ(森山)良子さんの『杏林(きょうりん)フォークカプセル』の公開録音を日比谷の野音に聴きに行ったりしてましたので。1年間、そういった学生シンガーの仲間入りができればいいな、くらいの軽い気持ちで。

── ちなみに1970年というと、いわゆる“反戦フォーク”が盛り上がった時期でもあります。そこからの影響もありましたか?

本田 実際に何か行動したというわけではなかったけれど、歌としてはとても好きでした。ただ、それについては私、忘れられない経験があって……。結婚してアメリカに住んでいるとき、ある教会の小さな集まりで歌う機会を与えられて、誰もが知っているプロテストソングの「We Shall Overcome(勝利を我等に)」を歌ったんですね。でも、そこは白人の教会で、後で知り合いの老婦人からその歌は“We don't like it. ”と言われてしまいました……。

── へええ。反戦歌であると同時に公民権運動の歌というイメージも強いのに、それは意外ですね。

本田 私たち日本人がすんなり受け止めていた公民権運動も、長い歴史の中にいた当のアメリカ社会ではいろんな葛藤が続いていた1970年代だったと思います。この歌はもともとは讃美歌なのですが、それ以来、簡単に歌えなくなってしまって。レコーディングの案があったときも入れなかったんです……すみません、話が逸れてしまいましたね(笑)。

── いえいえ(笑)。コンテストでは何を歌われたんですか?

本田 一次はジョーン・バエズの「イースト・バージニア」。二次はたしか黒人霊歌か何かを歌って、最終の三次はやはりジョーン・バエズの「シルキー」。これもオリジナルは長いバラッドなんですが、コンテストでは6番くらいまで歌ったのかな。

── コンテストにはご自分のギターで?

本田 はい。例の、月賦で買った一番安いギター。それしか持っていなかったのね。可笑しいのは、そのコンテストに優勝していただいたのがギター4台だったんですよ。何だかグループ用の賞品だったみたいで。お友だちに分けてあげたんじゃなかったかしら。

── 最終選考ではかなり緊張されたのでは?

本田 それが、そうでもなかったのね。アマチュアで気楽だったというとおかしいけど、「特に入賞できなくていい、ここで歌えるだけで満足」という気持ちだったんでしょうね。緊張でガチガチになった覚えはないです。むしろプロになって、えらく緊張するようになっちゃった(笑)。

── その『ハルミラフォークコンテスト』で優勝されたわけですが、1位の人には事前にデビューが約束されていたのですか?

本田 いえ、そういうわけではなくて、コンテスト終了後にCBS・ソニーのディレクターだった中曽根皓二さんからお誘いの葉書をいただきました。びっくりしましたね。私なんかに、こんな簡単に決めちゃっていいのかしらって。ただ、これは「本田路津子への100の質問」でも書きましたが、当時、中曽根さんがフォークシンガーの小室等さんに電話をかけて「誰かいい歌手はいないですか?」と尋ねたそうなんです。そのとき偶然、12チャンネルでコンテストの模様を放送していて。番組の最後だけ観た小室さんが「今、フォークの番組で女の子が優勝したみたいだから当たってみたら?」と仰ったんですって。

── では、本田さんの歌を見て推薦してくださったのではなくて?

本田 違うの(笑)。それでたしかニッポン放送のディレクターさんに「こんな葉書が来たんですが……」と連絡したのを覚えています。それが大学4年生になる春。就職活動を控えて通ってたタイプの教室も辞めて。デビューの準備に専念することになった。

── レコード会社はCBS・ソニー、所属事務所は森山良子さんも在籍されていたミュージカル・ステーションでした。

本田 はい。事務所を立ち上げた当時の社長さんは、「スチューデントフェスティバル」を中心になって束ねていた方ですし。私のマネージャーをしてくださった方も皆さん、そこで歌っていた人たちでしたので。いわゆる芸能事務所というより、いい意味でアマチュアっぽいアットホームな雰囲気で。それで私も違和感なくいれたのだと思います。ちょうど東京に引っ越してきた父と母に「コンテストで優勝してデビューすることになった」と話したら、驚いてましたけど(笑)。そのわりには反対もせず、応援してくれました。

── デビューまでの半年間は、どう過ごしておられたのですか?

本田 デビューに向けて猛練習したり。あとはミュージカル・ステーションが主催するコンサートにもたくさん出演させていただきました。よく覚えているのは大阪万博で歌ったこと。たしかジローズも出演されて……。

──後にその様子が『戦争を知らない子供たち』というライブアルバムになっていますね。

本田 今思うとデビュー前なのに、よくそんな大舞台で歌わせてもらったなと。私自身はそういうものなのかなと自然に受け止めてましたが……当時のフォークソングは本当にプロとアマチュアの境が曖昧だったんですね(笑)。


1stシングル
「秋でもないのに」
1970年9月1日発売

── デビュー曲は1970年9月リリースの「秋でもないのに」。高音に透明感があって、今でもとてもフレッシュに響きます。この曲は当時、フォーク界を代表するギタリストだった石川鷹彦さんの持ち歌だったそうですね。

本田 はい。その頃石川さんのお家は西荻窪で、私の家族はマンションが完成するまで荻窪で仮住まいだったので。お宅に通って練習しました。歌を聴かれた石川さんが「まだ絵になっていないね」と言われたのをよく覚えています。前にお会いしたら「あれ、俺、そんなこと言ったっけ?」と仰ってましたけれど(笑)。聴いてくださる人の中で「絵になるように」歌うことは、私にとって変わらないテーマになっている。この曲だけでなく、どんな曲についても。

──「秋でもないのに」は今でもよく歌われますか?

本田 はい。コンサートでも毎回歌うんですよ。私、意外にそういうサービス精神があるんです(笑)。讃美歌のCDを作ったときも、団塊の世代の方たちが聴いて楽しい歌をメドレー形式で収録したんですが、そこに入れてみたり……。昔の歌を歌わないという方もいらっしゃいますが、私にとってはやっぱり宝物。この曲があってこそ、今こうやって歌えるんだという感謝の気持ちがあるので。

── リリースはもう48年前ですが、それこそ「歌が描き出す風景」がご自分の中で変わってきたという部分はありますか?

本田 うーん……きっと、あると思います。何百回、何千回と歌ってきたけど飽きることがないというのは、要するに歌が生きていて、自分の中で自然に変化してるってことなんじゃないかしら。ただ最近は、むしろ「あなたの好きな絵を描いてください」という気持ちで歌っているような気もしますね。


2ndシングル
「風がはこぶもの」
1971年2月1日発売

── 翌年2月には、2曲目となる「風がはこぶもの」がリリースされて……。

本田 これはとっても歌いやすい曲で。ママさんコーラスのレパートリーにも、よく取り上げられていたみたいですね。後年、アメリカから帰国して、故郷の九州に戻ったとき。ご近所に音楽の先生が住んでいらっしゃって、「私は中学でこれを教えたのよ」と言っていただいたり。あとは、息子の学校の先生にリクエストされたこともあったなあ(笑)。今もいろんなところで歌ってくださいと言われます。

── 本田さんはさまざまな作曲家・作詞家の曲を歌っていますが、思い入れの強かった人はいらっしゃいますか?

本田 みんなそれぞれ、思い出がありますね。ただ、「特にこのコンビ」というのはないかも……。私、歌うのは大好きだけど、要求とか主張みたいなものはそんなにないんです(笑)。CBS・ソニー時代の曲のソングライターは、中曽根さんがうまく選んでくださったし。用意されたものを、とにかく一生懸命歌おうと。とにかく歌うのは楽しかったです。ただやっぱり、芸能生活には最後まで慣れなかったというか……とにかく生活が不規則だったでしょう。

── のんびりした大学生活を送っていたのが、急に世界が一変した。

本田 レコーディングが夜遅くまで続く日もあるし。朝早く出かけなくちゃいけない時もあるし……。今は「ツアー」っていうの? 当時はよく「旅」って言ってましたけど(笑)。全国を移動しつつコンサートを開くことも多かったので。そういう意味での疲れはありました。だからね、アメリカから帰国して、讃美歌のコンサートであちこち招かれるようになってからも、昔取った杵柄であんまり苦にならなかった(笑)。

── なるほど(笑)。フォークシンガーとして活躍していた時期、実像と世間のイメージとのギャップに悩まれたことはありましたか?

本田 深刻なものではなったけど、多少はありましたよ。ほら、予想を超えて売れちゃったでしょう。自分の意志と関係なく、イメージがどんどん大きくなっていくみたいで。もともと引っ込み思案ですし、付いていくのが大変だった。もしかしたらその辺は、事務所の方たちを悩ませていたのかもしれません。

── 作詞・作曲の曲を増やして、ご自分を表現したいというのは?

本田 正直、まっさらの状態から何かを考える余裕はあまりなかったですね。今回のCDボックスにもいくつか収めていただきましたけど、正直「えーと、どんな曲がありましたっけ?」という感じで……。同世代には素敵なシンガー・ソングライターの方がたくさんおられましたが、私は、自分の言葉で心のうちを見せるのがちょっと怖くて……。人の言葉を借りてきて歌うのは平気なんですけど。そういう点で臆病だったと思います。でも海外の曲に訳詞を付けて歌うのはやっぱり楽しかった。


4thシングル
「一人の手」
1971年9月21日発売

── 1971年11月リリースの「一人の手」などは、まさにそのパターンですね。もともとはアレックス・コンフォートの詩にピート・シーガーがメロディーを付けたものに、本田さんが日本語詞を付けられて……。

本田 たぶんこれは、作詞家の岡本おさみさんが「こういう曲があるよ」と教えてくださったんじゃなかったかしら? 当時はシンガー・ソングライターがブームだったので、私にも機会をくださったんだと思います。もとは別の日本語詞が付いていたんですが、それは見ないで私なりに書いてみました。メロディーもシンプルで英詞もそれほど凝ったものではなかったので、私にも気軽にできたんでしょうね。

── 1971年には「一人の手」でNHK紅白歌合戦に出場されて。その後も多くの人に歌い継がれる曲になりました。

本田 自分でもとっても驚きました。一時期はいろんな歌の副読本に掲載され、学校でも歌っていただいてたようで……。私の家のすぐ隣が小学校なんですが、少し前までは生徒たちの合唱する声がよく聞こえてきました(笑)。2011年の東日本大震災では、応援歌として歌ってくださった地域もあったそうで、この曲と出会えたことについては、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。


6thシングル
「耳をすましてごらん」
1972年7月21日発売

── その翌年リリースされた「耳をすましてごらん」は、NHK連続テレビ小説『藍より青く』の主題歌ですね。作詞は脚本家の山田太一さん。本田さんはこの曲で、紅白歌合戦に連続出場を果たされます。

本田 まさかNHKから依頼をいただくとは思っていなかったので、びっくりしました。物語の舞台になっている牛深という町が、私の故郷からもわりあい近い熊本県の天草地方で。そこに歌いに行ったことがあります。皆さん心から喜んでくれました。牛深の方にとっては宝物ですよね。でも正直に告白すると、当時は忙しくて、ドラマは全部きちんとは見られなかったの(笑)。

── そうなんですね(笑)。

本田 この曲もコンサートでは必ず歌う、私にとっても宝物です。

── ところで今回のCDボックス『Rutsuko Honda FOLK SONGS 1970-1975』を通して聴くと、DISC 4の「ライブ・コレクション」が印象的ですね。

本田 あら、恥ずかしいわ(笑)。

── 1973年6月9日の中野サンプラザホール公演を収録したライブアルバム『路津子オン・ステージ』に、さらに4曲プラスされていて。当時の雰囲気をリアルに伝えています。入手が難しかったので、すごく貴重ではないかと。

本田 スタジオのレコーディングはともかく、ライブの自分の声を聴くのは、わりと恥ずかしくて。たしか当時も「本当にこれ、出すんですか?」という感じだったんですよ。

── そうなんですか(笑)。「シェルブールの雨傘」「ソング・サング・ブルー」など選曲も面白いですし。「私はイエスがわからない」など、改めて聴き返すとかなりゴスペルっぽい歌い方で。

本田 あの曲は、ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」の劇中歌なんですよね。アメリカではヘレン・レディさんが歌って大ヒットした。今回、本当に久しぶりに聴きましたが、自分がああやって歌ったなんて信じられない。ほとんど他人の歌のようにして聴きました(笑)。

── では本田さんご自身が、今回のボックスで特に印象的だったのは?

本田 自分の持ち歌はもちろん、フォークのスタンダードでしみじみ「この歌、いいなあ」と思った曲がたくさんありました。小室等さん作曲の「雨が空から降れば」とか(作詞:別役実)、GAROさんの「たんぽぽ」とか……。恋愛とはまた違う、ああいう抒情的世界が自分は好きなんだなって。改めて思いながら聴いてますね。あとは五輪真弓さんが作詞・作曲してくださった「旅立つ想い」(1975年)も、とってもいい曲ですよね。

── アンドレ・カンドレ時代の井上陽水さんが、マンドレのペンネームで提供された「春が来ると」という貴重な音源も収録されていますしね。さて現在、本田さんはゴスペル、讃美歌を中心に歌っておられます。フォークを歌っていたころと気持ちの上での変化は大きいですか?

本田 うーん、どうだろう……讃美歌は信仰の歌ですから、気持ちの上では今の方が歌いやすいかもしれませんね。自分の祈りに通じる感覚で歌えますから。ただ、先ほどもお話ししたように、フォークシンガー時代の曲も私にとっては大切なレパートリーですので。とりわけ「秋でもないのに」「風がはこぶもの」「耳をすましてごらん」「一人の手」、あとは「この空の下で」などは、讃美歌コンサートの合間にも必ずといって言いほど歌っていて、すごく喜んでいただけるんですよ。


8thシングル
「この空の下で」
1973.11.1

── その意味では、かつてファンだった方だけではなく、若いリスナー層にも今回のCDボックスを聴いてもらえるといいですよね。

本田 そうですね。教会には若い人もいらっしゃるので。とてもいい機会をいただいたなと感謝しています。もっとも最近は、人前で歌う回数もフェードアウト気味で。今後は自分のために、楽しみながら歌えればいいなと思っています。実はね、昔のギターが傷んでしまったので、去年新しく買い換えたんですよ。それでまた、ジョーン・バエズの眠くなるようなバラッドを歌おうかなと思って(笑)。老後に備える準備は万端です。

── 楽しみですね(笑)。最後に1つ。本田さんにとってフォークシンガー時代の5年間は、振り返ってみてどのような時間でしたか?

本田 これはもう、本当に宝物です。今回CDボックスをいただいて、自分の歌に聞き入るよりむしろ、スタッフさんの顔とか当時の状況がぐっーと迫ってきて……。本当に感動しちゃいました。自分はすごくたくさんの人に支えられ、5年間を過ごせていたんだな。

── まさに駆け抜けた5年間だったと。

本田 そうですね。5年間で101曲なんて、自分でもびっくり。お友だちにも「あなた、そんなに録音してたの?」って驚かれました(笑)。丁寧にボックスを作っていただいて、いろんなことを思い出しながら振り返ることができた。本当によかったと自分でも感謝しています。

2018年春・都内某所にて
インタビュー・文/大谷隆之

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