ゴールデンジュークボックス

『ゴールデン・ジュークボックス~永遠のポピュラー・ヒッツ』
スペシャル・インタビュー

ルーシー・ケント(DJ)

50sオールディーズから70年代前半の洋楽にスポットを当てた140曲収録の5枚組CDボックス。全米No.1ヒット42曲を含むトップ10ヒット98曲も入ったまさに青春ジュークボックス! 今回はスペシャル・ナビゲーターとして、ラジオパーソナリティのルーシー・ケントさんをお迎えして古き良きポピュラー・ミュージック・シーンを自身のヒストリーと共に振りかえってもらいました。

ルーシー・ケント(DJ)

 

曲が流れた瞬間、みんなで楽しめる!
それがジュークボックス音楽の最大の魅力!!

 

父がNY出身のフランス系アメリカ人で熱心なレコードコレクター。
でも一番の影響はパーリーピーポーだった土佐出身の母かも(笑)。

 

―― 今日は『ゴールデン・ジュークボックス~永遠のポピュラー・ヒッツ』を語る取材場所として、ここオールディーズライブハウス「六本木KENTO'S」に、ルーシーさんをお迎えしました。ルーシーさんが80年代に毎夜ステージで歌っていた原点とも言える場所でお会いできて光栄です。

 

ルーシー  ありがとうございます。私も嬉しいです。今日はこの取材のために店長にお願いして、いつもより早くお店を開けてもらいました(笑)。今の場所に移転する前の旧防衛庁(現東京ミッドタウン)の近くにあった頃からKENTO’Sのステージに立たせていただいていました。お店の展示物も更にグレードアップし、懐かしいアルバム・カヴァーやポスターなど50s&60sにタイムスリップしたかのような雰囲気に。さらに私たちバンドも当時のファッションで演奏するようになったのです。KENTO’Sには想い出がたくさんつまっています。あ、でもね、本当の意味での私の“原点”は違うかもしれませんよ。

 

―― と、いいますと。

 

ルーシー  父がNY出身のフランス系アメリカ人で熱心なレコードコレクターでした。そして母が高知県の土佐出身なんですが、この母が踊ることが大好きなパーリーピーポーだったんです(笑)。当時のステレオやTVは家具調の作りで、かなり大きい物なのですが、その大きなステレオをわざわざお庭に出して、そこでレコードをかけながらゴーゴーしたりジルバを踊ったりするような本当に楽しい女性でした。私がKENTO'Sで歌い始めた頃、母が昔パーティーで着ていたパラシュート・ドレスやピンヒールを大切に保管していたのですが、流石に着る場所もなくなった、それら愛着品をステージで着てちょうだいと言って私に譲ってくれたのです。3着ありましたが、全てダメになるまで着用していました。気がつくとステージの近くに来て私を応援していました。私の中には間違いなく父と母の血が流れていますね(笑)。

 

――  両親と“庭”が原点ですね。音楽に囲まれた家庭だったんですね。

 

ルーシー  本当にいろんなジャンルの音楽を小さい時から聴いていました。クリスマスになると母のお気に入りのアンディ・ウィリアムスのクリスマス・アルバムが一日何回も家の中で流れていました。私も最初は鼻歌だけだったのが、気がつけば歌詞まで覚えちゃっていましたからね。そういえば、私の小さい頃はEPドーナツ盤しか乗せられないポータブルなレコードプレイヤーというのがあり、それを誕生日にプレゼントしてもらったんです。そのまま車に乗せて、動き出すと針が飛んじゃったりして、それが何だかすごく楽しかったですね。一緒にプレゼントしてくれたレコードで覚えているのは、有名な舌がベロンと出たジャケットだったり(ウインク!)。

 

―― もう、ロックの時代ですね。

 

ルーシー  はい。私が物心ついた頃はビートルズやローリング・ストーンズが既成のロックンロールを変え始めたころ。ボブ・ディランやピーター、ポール&マリーとかのフォークも時代も前後していたけれど。でも私の初恋はテレビに映るエルヴィス・プレスリーだったんです。ただ、すでにエルヴィスはロックンローラーじゃなくて、袖にふりふりのフリンジ、腰にチャンピオンベルトみたいなのをつけて歌っている太めな頃だったんですね。だから、ロックンローラーというよりエンターテイナー。でもそんなことは後から振り返った歴史のことで、幼稚園児だった私は、もみあげがすごいエルヴィスにただただハートマーク。でもしばらくしてエルヴィスはプリシラさんと結婚してしまうんですね。1967年だったかな。私はまだ小さいのに生意気にも浮気者で今度はザ・タイガースを好きになって(笑)。テレビではGSとかザ・ピーナッツら日本のポップスを聴いて、FENのラジオからはアメリカのトップ40ヒッツを聴いて育っていきました……ってCDの紹介じゃなくて、私の生い立ちインタビューになっていませんか(笑)!?

 

ルーシー・ケント(DJ)

 

50~60年代ポピュラー・ミュージックはメロディも歌詞もシンプル。
どこかロマンティックで、どこかドラマティックなものが多かった。

 

―― このままもう少しルーシーさんの想い出を聞かせてください。

 

ルーシー  8歳の時にモデルとしてスカウトされ、10代でいろんな経験をさせていただきました。エキストラのお仕事もよくしましたが、そのなかで忘れられないのが榊原郁恵さんと大場久美子さんが主演の半分ドラマで半分ゲストが歌う30分番組(TBS系ドラマ『少女探偵スーパーW』/1979年放送)。実際の本人役で出演されていた手塚治虫さんの秘書役として出演させていただいたことは今でも忘れることの出来ない瞬間。その番組に出演させていただいた日の歌のゲストは西城秀樹さん。当時大ヒットしていた「YOUNG MAN (Y.M.C.A)」を出演者全員があの振り付けで踊るシーンの撮影も。とても楽しい想い出です。

 

―― おっと、昭和歌謡史に刻まれる振り付け経験ありとは(笑)。

 

ルーシー  アハハ。芸能のお仕事をさせていただいているうちにいろいろな人との出会いがあって、ちょっと歌ってみない?というお話を頂きまして。ハーフが当時の芸能界では今ほど多くなくて、珍しかったのかもしれませんが、英語で歌ってみなさいよぉ!と。名刺代わりにデモテープを録りましょうと話が進み、初めてレコーディングしたのがオリビア・ニュートン=ジョン「そよ風の誘惑」。人気ジャズ・コーラス・グループのTIME 5の事務所にお世話になることとなり、高校生の時にTIME 5のマスコット・ガールとしてヴォーカルのキャリアがスタート、一緒のステージに上らせてもらい、いろんなナンバーを歌わせてもらいました。きっと事務所的にはいろんな場所で歌って度胸をつけさせようとしたんでしょうね。同じ頃、セッション・ギタリストとしてご活躍されていた方が六本木のKENTO’Sに月1ぐらいで出演されていて、そんな縁で私もKENTO’Sで歌わせてもらうことになったんです。私のステージを観てくれていたKENTO’Sのプロデューサーの方が“月1じゃなくて毎日この店で歌わないか?”とお誘いいただきレギュラー・ステージに繋がっていくんです。

 

―― 80年代のオールディーズ歌姫ルーシー・ケントの誕生ですね。

 

ルーシー  いまから見れば80年代がオールディーズかもしれませんね(笑)。毎日歌いながら気がついたんです。やっぱりこのジャンルが私好きだって。50~60年代ポピュラー・ミュージック、オールディーズが好きだって。それは歌っていてもまったく飽きないからだと思います。ロック、ポップスが進化をするスタート地点の音だからメロディも歌詞もシンプル。

 

―― だからこそ歌う人の感情も伝えやすいですよね。

 

ルーシー  その通り! あまりにもシンプルすぎて歌唱力が問われる曲もあったりするんですよ。『ゴールデン・ジュークボックス~永遠のポピュラー・ヒッツ』のなかで挙げるならば……シーカーズの「ジョージ―・ガール」(Disc4-9)。彼女は淡々と歌っていて私たちの耳にどんどん入り込んでくるんですよ。だけどあんな感じで表現するのは難しかった。逆に歌っていてとにかく楽しかったのはコニー・フランシスの「ヴァケイション」(Disc2-4)とか。夏休みの出来事をかいつまんで書いてるだけの歌詞なんですけど、アメリカは3か月くらい夏休みがあるので説得力があるんですよね。この頃の曲はどこかロマンティックで、どこかドラマティックなものが多かったような気がします。

 

―― 例えば。

 

ルーシー  まさに幕開けがロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」(Disc1-1)。このボックスのオープニングにふさわしいドラマティックなナンバーです。この曲は私もKENTO'Sのステージでは6年間毎日歌っていました。4年くらい前に28年ぶりにライブをやった時もやっぱりカヴァーしましたね。あのトン、トトン、トン、トトン(テーブルを叩きながら)のリズムですね! 生みの親プロデューサー、いわゆるフィル・スペクター・サウンドがポップ・ミュージックにもたらした影響は計り知れないわけで。ロニー・スペクターの声も歌い方も特徴がある。ロイ・オービソン「おお、プリティ・ウーマン」(Disc1-2)、エルヴィス・プレスリー(Disc1-3)ではなく音楽シーンで重要な1曲をアタマに持ってきたCDディレクターのセンスが良いですね。もちろん良く知っている方ですが(笑)。[編集部注=制作2部ディレクター能勢秀昭]。

 

ルーシー・ケント(DJ)

オールディーズを楽しむことはディズニーランドに行くのと同じ。
イントロのゲートを潜れば大人も子供もいつの間にか笑顔になってる。

 

―― 他にも『ゴールデン・ジュークボックス~永遠のポピュラー・ヒッツ』のなかで気になる曲はありますか?

 

ルーシー  ほとんど全曲気になります(笑)。Disc1の収録曲だけでも眺めてみると……あ、アン=マーグレットはその姿が私の憧れでした。キュートで、綺麗で、セクシーで。歌はそんなに上手ではなかったと思いますが、「バイ・バイ・バーディー」(Disc1-17)は本当にかわいかった(♪歌い出す)。ヘンリー・マンシーニの「ムーン・リヴァー」(Disc1-23)もあの日に帰ってしまいます。今はいろいろなポップ・アーティストたちが映画のために主題歌を作って映画と一緒にヒットするというパターンが多いけれど、昔はこういったヘンリー・マンシーニ楽団のように壮大なサウンドやストリングス・セクションが加わった美しいサントラが主流でした。パーシー・フェイスの「夏の日の恋」(Disc1-22)もそう。夏といえば昔サーフィンブームがあったんですね。私も面白そうなものはすぐにやっちゃうタイプなのでボード乗りを始めたんですけれども、その時にパパが聴いていたビーチ・ボーイズの「サーフィン・U.S.A.」(Disc2-2)が自分のなかでリンクした。私はKENTO'Sで歌うようになって、“そうなんだ、幼い頃に聴いていたあの曲はこの時代の曲だったんだ~”っていう学びは多かった。だからKENTO'Sのステージは音楽の学校でもあったんです。

 

―― 140曲分の想い出がありそうですね(笑)。

 

ルーシー  ほんとですね(笑)。そう。家系はフランス系アメリカ人ではありますが、私はフランスに住んだ経験はなくて、ちょっと憧れなんですね。だから子供の頃からフランス・ギャル「夢見るシャンソン人形」(Disc2-14)やフレンチ・ポップスもすごく好きで、そのフレンチ・ポップスをカヴァーしていた日本のザ・ピーナッツも大好きでした。そうそう。KENTO’Sで毎日50年代~60年代の音楽を一人で歌っていましたが、少し変化が欲しいなと思い、女性コーラスを2人つけて月に1回ガールズ・グループ特集をしていたこともあったんです。シュープリームスの「恋はあせらず」(Disc2-6)とかモータウン系やフィル・スペクターサウンド。そうしたガールズ・グループのショーが好評だったのでエスカレートしてザ・ピーナッツのヒット曲を歌うショーも。これもかなり好評でしたね(笑)。

 

―― 50~60年代のポピュラー・ミュージックには不思議な力がありますよね。

 

ルーシー  理屈じゃなくて、楽しいんです!  ディズニーランドに行くのと同じだと思うんです。ゲートを潜ると大人も子供もいつの間にか笑顔になっているじゃないですか。オールディーズのイントロはあのゲートと一緒。どんどん進んでいくうちに、みんなリズムを取り始め、気がつけば踊り出しちゃう。1曲1曲の再生時間もアトラクションと一緒で、ホラ! しつこくなくて潔いでしょ。演奏者がダラダラしているとリスナーだってダラけちゃう。だから曲が流れた瞬間、みんなで楽しんじゃおうというのがオールディーズ最大の魅力だと思います。

 

インタビュー・文/安川達也(OTONANO編集部)  写真/島田香

 

ルーシー・ケント(DJ)

LUCY KENT(ルーシー・ケント)

アメリカ人と日本人の両親を持つ。アメリカ生まれ、3歳の時に東京に移住。 8歳の時に原宿でスカウトされ雑誌・ポスター・TVCMなどモデルとして活動をはじめる。 高校卒業後、ラジオDJ、ナレーター、MCの仕事もスタート。 ‘81年から6年間、六本木のライブハウス『KENTO'S』のボーカリストを務めた。 ‘88年、J-WAVE開局と同時にDJに起用される。以降、同局で様々な レギュラー番組、イヴェントの司会を担当。 ‘98年には長野冬季五輪では聖火ランナーに選ばれた。

著作本『ラジオに恋して ぼくらのラジオデイズ1980-2016』(ゴマブックス)発売中。

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ゴールデン・ジュークボックス
~永遠のポピュラー・ヒッツ

商品展開写真
発売日:
2014年10月16日
価格:
¥10,000+税
品番:
DYCS-1215
仕様:
特製ボックス収納 CD5枚組
全140曲収録/全曲の歌詞、解説文を掲載(楽曲解説:櫻井隆章)
ジュークボックスをイメージした、流れが良く聴きやすい曲順で収録

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