藤圭子劇場

『藤圭子劇場』担当ディレクター尾形靖博インタビュー
構想5年――。ライヴ音源を現代に蘇らせた渾身のCD6枚組『藤圭子劇場』。
奇跡のパッケージ化に至るまでの想いを担当ディレクターが熱く語る。

♪15、16、17と私の人生暗かった~を聴いたのは中学1年生位。
「俺の人生はあと3年ぐらいしたら暗くなるんだ」って思いましたね(笑)。

担当ディレクター尾形靖博

 

――『藤圭子劇場』は『艶・怨・演歌』から“構想5年”ということですが、当時から出すことは決まっていたんですか?

 

尾形  2011年に企画が持ち上がり、藤さんのディレクターだった元RCAの榎本襄さんから「特に1stコンサートのはデキがいい」と聞いていたので、2月には我々の乃木坂にあるスタジオからライヴ音源はピックアップしていました。

 

―― そのライヴ音源を最初に聴いた時、どう思われました?

尾形  やっぱり1stと2ndコンサートが一番よかったです。

 

―― ファンの間でも伝説のコンサートと言われている1stコンサートは、やはり素晴らしいですか?

尾形  そうですね、素晴らしいコンサートだと思います。今回の作品には本当は映像を付けようと思い、テレビ局にも打診したのですが、1970、71年ってまだフィルム代が高かった時代で、使いまわしすぎて、消えてしまっていて残っていないんです。藤圭子さんに限らず他の歌手の方の70年、71年の映像もあまり残っていないと思います。

 

『艶・怨・演歌』

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―― 尾形さんはリアルタイムで藤圭子さんの歌をテレビで聴いていたと思いますが、覚えていますか?

尾形  たぶん中学1年生位だったと思いますが、はっきり覚えています。自転車で商店街を走っていると藤さんの歌がよく流れていて、パチンコ店の前を通っても“15、16、17と私の人生暗かった~”って聴こえてきて、それを聴いて「俺の人生はあと3年ぐらいしたら暗くなるんだ…」って思ったことを覚えています(笑)。映画にもよく出ていました。東宝、松竹、東映、日活全部の映画に出ていました。

 

―― 藤さんのコンサートは観たことはあったんですか?

尾形  演歌制作部というセクションにいた1998年に、我々の会社の所属歌手と藤さんが一緒に出るコンサートがあり、そこで一度だけ生歌を聴きました。改めてすごい歌手だなと思いました。

 

―― 尾形さんが考える、藤圭子という歌手の最大の魅力はなんだと思いますか?

尾形  声に尽きますね。「京都ブルース」(1974年)のレコーディングの後に喉を手術して、「声が変わった」と本人も言っていましたが、確かにそうでした。透き通った感じになって、あの独特のひっかかる感じがなくなってしまったように思いました。でもそれは微妙な感じで、普通の人が聴いても気が付く人は少ないと思います。

 

―― この作品を聴くと、改めて藤圭子さんの“ひと声の威力”を感じました。彼女がひと声発した瞬間に、彼女の世界に引き込まれてしまいます。

尾形  そうですよね。あと動きがないんですよね、彼女は。直立不動に近い姿勢で、やや伏し目がちで歌って、そういう人も他にはいませんでした。

 

担当ディレクター尾形靖博

スタジオ録音盤ではなく実況録音盤なので
どうしても修正できない部分はあえてそのままCDに刻印しました。

―― このライヴBOXが発売までに5年かかった理由は、何か事情があったんですか?

尾形  2011年に藤圭子さんが亡くなって、それに合わせるように出すのがすごく嫌で、企画を一年ぐらいストップさせていました。

 

―― 藤さんが亡くなって、逆にお客さんから「作品を出して欲しい」という声は、届いていましたか?

尾形  メールが届いていました。特に藤圭子さんのファンは熱心な方が多いので、たくさんいただきました。

 

―― 今回のライヴ盤を制作するにあたり一番苦労した点はどこですか?

尾形  よりいい音にしようと、修正を試みた部分もありましたが、一部修正できない部分がありました。それはスタジオ録音盤ではなく実況録音盤なので、音を良くしようと調整すると、逆に他がおかしくなるとエンジニアに言われ、榎本さんも気になる部分はいくつかあったようですが、結局修正できなくて、そのまま出しました。

 

―― コンサートではカバー曲もたくさん披露しています。

尾形  デビューする前から良く歌っていた曲、「カスバの女」とか「涙の酒」は他のカバー曲と比べるとやはり歌い込んでいるからか、説得力が違うし「なるほどな~」と思いました。榎本さん曰く歌に関しては、これは歌いたくないとか、あれは嫌だとかそういうこだわりはあまりなかったみたいです。プライベートでは「涙の酒」をよく歌っていたと教えてくれました。

 

―― 尾形さんが藤圭子さんの作品で個人的に好きな曲はなんですか?

尾形  「別れの旅」(72年)です。歌詞が印象的で、あの曲はテレビであまり歌っていないです。何故藤圭子さんの歌が人々の心に残っているのかというと、これは私見ですが藤さんの存在って、活動期間は10年間でしたが、その輝いていた“一瞬”の印象があまりに強烈なんです。1970年のオリコンのアルバムランキングで37週連続1位という記録を樹立して、企画アルバムも入れればほぼ一年間1位でした。万博が開かれた1970年という年の一年間走り続けたから、人々の記憶に深く残っているんだと思います。ただ、「圭子の夢は夜ひらく」を含めて初期のヒット曲の存在が大きすぎて、「京都から博多まで」「はしご酒」とか、後期の曲も売れていることは売れているのに、世間ではそう見えていなかったんです。最初から大きなヒット曲があると後がきついということで榎本さんは、「新宿の女」をデビューシングルにして「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」という順番でリリースする戦略でしたが、「女のブルース」が予想以上に大ヒットするという嬉しい誤算があったようです。100万枚売れる曲を1曲作るよりも、30万枚売れる曲を出し続ける方が、歌手生命は長いです。

 

―― 作詞家の方も藤さんの声のトーンとか節回しを考えて、言葉を紡いでいたんでしょうね。

尾形  そうだと思います。面白い話があって、榎本さんが曲を勝手に直したりしていたみたいで(笑)、猪俣公章さんが作った「女のブルース」も一音直したりして、猪俣さんが「あれは俺の歌じゃないからな」と怒って、しばらく口をきいてくれなかったと言っていました(笑)。でも結果的に「女のブルース」が売れたからよかったんですけどね(笑)。阿久悠さんが作詞した「別れの旅」も直したみたいで、両巨頭の作品を直すという、榎本さんはすごいディレクターですよね。

 

担当ディレクター尾形靖博

新宿コマ劇場でのファイナルコンサートは
全ての音楽ファンに聴いてもらいたい。

―― 尾形さんがこの6枚の中で特に聴いて欲しいと思うのは、どのライヴのどの曲ですか?

尾形  新宿コマ劇場でのファイナルコンサートですね。それと榎本さんがセレクトした8曲は素晴らしいです。特に「刃傷松の廊下」を歌った時は確か21歳で、その歳であの歌をここまで歌えるのはやっぱり化け物だし、尋常じゃない表現力だと思います。

 

―― 浪曲師だった父親の影響もあるでしょうし、流しをやっていたということもあると思いますし、そういう中で培われてきた凄みというか、すごい表現力ですよね。歌ひとつひとつにディープなものを感じます。

尾形  当時は演歌という言葉がなくて、ロックが好きな人も藤さんの歌は好きで、とにかく幅広いファン層から支持されていたのが、すごいですね。子供のファンからは「圭子タン」と呼ばれていて。

 

―― 演歌という言葉はありませんでしたが、あったとしても“演歌”と言っていいか、そんな枠を超えた歌だったと思います。

尾形  本当にそうだと思います。いわゆる演歌じゃないですよね。

 

―― そして、あの美しさと声とのギャップがいいですよね。

尾形  本当にきれいでした。

 

―― 尾形さんは藤圭子さんと同じ時代に人気だった、南沙織さんのファンクラブに入っていたとお聞きしましたが、ポップスシンガーのファンに、藤圭子さんはどう映っていましたか?

尾形  音楽のジャンルは違いますが、片や「誰もいない海、二人の愛を確かめたくて」って歌って片や「15、16,17と私の人生暗かった」って歌っていて「あれ?なんだこの違いは」と思っていました(笑)。健康的とそうじゃない感じ。

 

―― 今回封入されているブックレットには、藤圭子さんのデビューキャンペーン「新宿25時間立体キャンペーン」を伝えるスポーツニッポンの紙面が掲載されていますが、この記事は当時読んだ記憶はありますか?

尾形  はい、うちがスポーツニッポンをとっていたので、小学校6年生の時にこの記事を見ています。当時はテレビで「巨人の星」がヒットしていて、ジャイアンツの人気がすごかったので、ジャイアンツの記事を楽しみにしていましたが、芸能面でこの記事を読んで、印象に残っています。なのでこのボックスの企画を考えている時に、あの写真があるはずだと思って、スポニチさんに連絡しました。そうしたらあったんです。幸運なことにその写真を撮ったカメラマンさんがまだ在籍していたので、使うことができました。

 

―― 当時はこういうキャンペーンは珍しかったんですか?

尾形  レコード店を回って歌うという手法は今もありますが、でもレコード店からキャバレーから深夜の喫茶店まで回るというのは藤さんが最初で最後だと思います。よくキャバレーで歌えたと思います。もちろん事前にお願いはしてあったとは思いますが、当時はキャバレー全盛期でしたし、仕込んだスタッフは凄いなと思います。このキャンペーンは「新宿の女」にちなんだもので、当時はフジテレビも文化放送も新宿、四谷にあったので、すごくいいところをついていると思います。しかも24時間にしないところがミソですよ。他社ですけどレコード会社の先輩方の発想は尊敬します。これをやられると、もう同じことができないですよね。

 

―― 売ろうという意気込みが伝わってきますよね。このブックレットもそうです。スタッフの方の愛情が伝わってきます。

尾形  ありがとうございます。アーティスト写真を年代順に並べましたが、選ぶのに3時間以上かかりました。実は2枚ほど明確な年度が不安なものがありましたが、髪型の変遷で推測しました。ファンの方からまだクレームが来ていないので、合っているのだと思います(笑)。

 

担当ディレクター尾形靖博

パッケージは昭和世代のディレクターと
平成世代の若いデザイナーの結晶です。

―― 今回のジャケットの写真もインパクトがあります。

尾形  写真を選ぶのってものすごく大変で、でも私は写真を選ぶのだけは自信があります(笑)。今回のジャケット写真も絶対これしかないと思っていましたし、表4も客席から花束を受け取っている写真しかないと思っていました。

 

――『藤圭子劇場』というタイトルにもひきつけられます。

尾形  ありがとうございます。他は全然褒められないんですけど、写真選びとタイトルはいつもいいと言ってもらえます(笑)。

 

―― 一番大切な部分です。パッケージの表1の新宿のネオンらしき写真と、表4の宇宙っぽいイメージの写真の対比が不思議な雰囲気を醸し出しています。

尾形  デザイナーが考えたアイディアですが、最初は「これは違う、やりすぎ」と言いました。藤さんが客席から花束をもらっている写真と、宇宙っぽい写真の組み合わせだと、屋外を想像させるので違うと思いました。それは1970年代前半に屋外でコンサートをやった女性シンガーはいないからです。球場とか野外でコンサートをやったのは、確か西城秀樹さんが最初だったと思います。でもデザイナーは「藤圭子の世界観を表したかった。彼女は地上だけのものではなく、ひとつの“世界”で、宇宙のような存在なんだ」というので、納得しました。

 

――色とか書体も尾形さんの指示ですか?

尾形  いえ、これはデザイナーが考えたものです。私と年が近い、「昭和」の時代を生きてきて、「昭和」の雰囲気をわかっている人なので、昭和のアーティストの作品に関してのクリエイティブは信頼しています。平成になっても「昭和〇年」とかいう人なので(笑)。ひとつ言えることは、その時代が好き、興味がある人が作品作りに携わらないと、いいものはできません。それはデザイナーもそうだし、エンジニアもそうです。好きでもないアーティスト、曲のマスタリングを任せてもダメです。どんなに技術を持っている人でも、その曲のことが好きな人でなければいい仕事はできない。エンジニアも指名する人も多いのですが、私は誰でもいいです。ただし今回で言えば、藤圭子の歌が好きかどうかだけでした。南沙織さんの作品を作る時は南沙織さんの曲に、キャンディーズの作品を作る時は彼女たちの曲に興味があるかどうか、それだけです。興味がない人がやってもダメです。

 

―― 微妙なニュアンス、仕上がりに影響してきそうですよね。

尾形  そうです。当時の雰囲気がわかっていたり、曲を聴き込んでいるかどうかが大切で、ほんの少しの違いが大きな違いになっていきます。

 

―― 藤圭子さんの歌が好きなエンジニアさんと、デザイナーさんが揃って、写真とキャッチコピーの鬼が揃った作品が『藤圭子劇場』だと。

尾形  そうです(笑)。

 

―― 若い人に聴いて欲しい作品ですよね。尾形さんは宇多田ヒカルさんが登場してきた時は、どう感じました?

尾形  彼女がデビューした1999年は演歌制作部にいましたが、デビュー曲の「Automatic」のミュージックビデオを観た時は、「低い姿勢で腰をくねくねさせて歌うコだなぁ」と(笑)。宇多田さんのライヴを観たことがないので、なんとも言えませんが、お母さんと曲も歌い方もタイプは違いますが、母娘ですごいなと思いました。宇多田さんが自分のラジオ番組で、藤さんが歌う「マイウエイ」を流してくれたんですよね。

 

―― 今後藤圭子さんの作品のリリース予定はありますか?

尾形  CD化されていない音源がまだまだあって、映像と組わせたりすると面白い作品ができあがるかもしれませんが、まだ未定です。

インタビュー・文/田中久勝

ベテランチーフプロデューサー、尾形靖博

尾形靖博(おがた・やすひろ)

株式会社ソニー・ミュージックダイレクト
ストラテジック制作グループ 制作1部 チーフプロデューサー

●1980年、CBS・ソニーレコード(現Sony Music)入社。ソニー・クリエイティブプロダクツにて文具一筋8年、レコードを売るはずが、シャープペンシルや化粧品を売ることとなった同期たちと共に、営業、宣伝、管理、資材部門を経験。何気なく使っていたシャープペンシルに3つの特許があることを知って驚き、文具の深さを知る。その後、CBS・ソニーグループ映像事業部に異動。 レコード営業、演歌制作部等を経験し、GTMusicから現在のソニー・ミュージックダイレクト在籍となる。趣味は、昭和カラオケと競馬観戦。プロの歌手とスナックにカラオケに行って、その歌手が歌ったところ、騒いでいたお客さんたちが、だんだん静かになり、歌い終わったら全員が拍手喝采で、握手を求めてきた。歌手の凄さを目の前で観たことが、サラリーマン人生の宝物のひとつ。

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