DISCOVER the 90's

DISCOVER the 90'sこの時代を彩った名曲たちを随時配信!!

NEW!第十弾アーティスト

百花繚乱にして非常に芳醇な音楽にあふれた90年代。“DISCOVER the 90's”と銘打ち、ソニーミュージックのアーカイヴから、これまでリイシューされていなかったアーティストを中心に、この時代を彩った名曲たちを随時配信していきます。

Text by 兵庫慎司

SIDE-ONE

配信はこちらから

ネオ・ロカビリーであり続けながら、J-POPのフィールドに出ていくスケール感を持っていた

SIDE-ONE

    グレッチもしくはギブソンのセミアコを抱えたヴォーカル&ギター、ウッドベースをスラップ気味に弾くベーシスト、キックとスネアとシンバルだけのセットをスタンディングで叩くドラマー、という3人編成のネオ・ロカビリー・バンドが、1980年代初頭~1990年代前半頃の日本には、各地に、必ずいた。と断言するのは、ちょっと乱暴かもしれないが、少なくとも、1980年代半ばに広島の高校生であり、1980年代末期には京都の大学生であり、1990年代初頭に東京の音楽業界で働き始めた僕の知る限りでは、そうだった。
    1981年のストレイ・キャッツのブレイク以降、そうなった。と、シンプルに言っていいと思う。それくらい彼らの登場は、絶大な影響力を持ったものだったわけだが、伝統的でかっちりスタイルが決まった音楽性であるだけに、その影響をルーツとしてスタートし、メジャーのフィールドまで浮上したバンドは、決して多くはなかった。
    その数少ない存在が、1997年にデビューしたSIDE-ONEである。言い換えれば、ネオ・ロカビリーであり続けながら、当時の言葉で言うところのJ-POPのフィールドに出ていくスケール感を持っていた、そういう曲を書いて歌って演奏することができるバンドだった、ということだ。その十数年前、同じようにフィフティーズのロックンロールやドゥワップをルーツとしてスタートした、チェッカーズのように──。
    と言うと、わかりやすいだろうか。残念ながら、チェッカーズのようにブレイクしたわけではなかったが、そうなってもおかしくないポテンシャルを彼らの音楽が持っていたことは、このたびこうしてストリーミングで聴けるようになった、当時の楽曲に触れていただければ、伝わると思う。
    あと、武内享がプロデュースを手掛けている理由が、決して「頼まれたから」だけではなかったことも、伝わると思う。それくらいエヴァーグリーンな輝きを、彼らが残した楽曲たちは、放っている。
    1990年、札幌にて、アキラ(ヴォーカル&ギター)、ユウジ(ベース)、ワタル(ドラム)の3人で結成。1991年に活動の基盤を東京に移す。1997年4月21日、ソニー・ミュージック傘下のアンティノス・レコードから、武内享プロデュース(曲によってはギターでも参加)のアルバム『ロックンロールメン』で、メジャー・デビューする。以降、1998年までに計2作のアルバムと5作のシングルを発表、2000年に解散。
    アキラとユウジは元PEALOUTの高橋浩司、元THE COLTSの清野セイジとHARRISを2005年に結成、2015年の休止まで活動を共にする。2012年にはSIDE-ONEが再結成、ニュー・アルバム『ROCK ME ROCK YOU』をリリース。2020年現在、アキラは、ソロ・プロジェクトAKIRA WILSONで活動中で、年内に配信シングル、来年にはニュー・アルバムをリリース予定。また、ユウジとワタルは少林兄弟で活動中。こちらも年内にはニュー・アルバムをリリース予定である。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

大塚利恵

配信はこちらから

柔らかく深く刺さる刃のような歌

大塚利恵

「ぼくが消えた朝 天使の羽が生えて 鏡見て笑ったよ 似合わない おかしいね」
「悲しみは 悲しみのまま 喜びは 喜びのまま ぼくだけがいない」
「ぼくが消えた朝 愛しいかけらたちが ぼくの手さえ握らず 泣いている気がした」
「恋人は 恋人のまま 友達は 友達のまま ぼくだけがいない」
「幸せは 幸せのまま 優しさは 優しさのまま ぼくだけがいない」
「もう一度 生まれ変わっても ぼくはもう ぼくじゃないから 忘れてもいいよ」

    以上、長々と引用してしまったが、大塚利恵、20歳の時のデビュー・シングル(だからおそらく書いたのは10代の頃)、「いいよ。」の歌詞の抜粋である。
    すごくない? デビュー曲のテーマがいきなり「己の死」。しかも、自分が死んでも何も変わらない、ただ自分がいないだけ、とか、もし生まれ変わっても、それはもう来世であって今の自分じゃないから、忘れてもいいよ、とか。よくこの曲を選んだな、当時のスタッフ。
    でも、そうか。いちばん強烈なのはこの曲だけど、他の曲も多かれ少なかれ、基本的にはこういうテイストなんだから、それでいいのか。
    普段ピアノを弾きながら作っているんだろうなと思わせる(実際「Oh Dear」のようにそのままピアノ弾き語りの曲もある)、素朴で抑揚のはっきりしたメロディと、よく通るまっすぐな声で、この人が歌うのは、こんな曲ばかりだ。すごいギャップ。ゆえに、すごいインパクト。心の無防備な部分を、ぐっさりえぐられる。ネットで探したら歌詞を見つけられない曲もあったので、聴きながらインタビューをテキストにする時みたいに、パチパチ書き起こしたほどです。で、そこに並んだ文字を見て、改めて「うわっ」となったほどです。
    1998年7月18日、ソニー・ミュージック傘下のアンティノスレコードから、前述の『いいよ。』でメジャー・デビュー。同年9月19日にはシングル『涙のカギを開けて』、11月21日にはファースト・アルバム『Oh Dear』を発表。アンティノスを離れて2003年にコニシス・エンタテインメントに移るまでの間に、セカンド・アルバム『東京』(2001年2月28日)、シングル『東京』(1999年4月29日)、シングル『笑わせてあげる』(1999年9月22日)、シングル『それだけのこと』(2001年2月28日)と、アルバムをリリースしている。このたびストリーミング・サービスで聴けるようになったのは、以上の、アルバム2作・シングル6作の、全36曲である。
    なお、『Oh Dear』は、笹路正徳がプロデュース、土方隆行等も参加。『東京』のプロデューサーは、リトル・クリーチャーズのベーシストであり、他アーティストのライヴ・サポートやレコーディングやセッション等でもひっぱりだこの鈴木正人が務めている。
    2020年現在は、自身のシンガー・ソングライターとしての活動のほか、作詞家としてもFUNKY MONKEY BABYSやAAA、アニソンや舞台など、広範囲にわたって多数の作品を手がけている。また、作詞教室「作詞Labo Lesson」の主宰でもある。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

センチメンタル・バス

配信はこちらから

今聴いても「素敵にどうかしてる」楽曲たち

センチメンタル・バス

  「センチメンタル・バス(SENTIMENTAL:BUS)は、日本の音楽ユニット。1998年9月19日にCDデビューし、2000年12月31日に解散した。略称『センチバ』」
    ウィキペディアでセンチメンタル・バスを当たると出てくるこの1行目を見て、まずびっくりした。え、2年? そんなに短かったっけ? もうちょっと活動していたような印象があったんですけども。
    というふうに、誤った記憶を自分が持ってしまっていた理由が、このたび配信解禁になった、アルバム2作・シングル7作を聴き直してわかった。2年ちょっとでそれだけ出ているという作品数の多さもあるが、という以上に、それぞれの曲の印象があまりも鮮烈だからだ。リリースになるたびに、強く耳にひっかかっていたからだ。
    メロディはストレートでキャッチー。「普通の人の普通の声」っぽくありながら、高音域からローまで自在に発する、そしてひとことひとことがクリアにヒアリングできる、NATSU(ボーカル/ギター/作詞)の歌。というどまんなかのポップソングでありながら、「バンド・サウンドも打ち込みもあり」なアレンジに、「ノイズ」要素や「不協和音」要素や「効果音」要素や「何これ?」要素などをポンポン放り込んでくる、鈴木秋則(キーボード・作曲)の、過剰としか言いようのない、素敵にどうかしてるセンス。「変な音を変な位置に変なタイミングで入れる」だけじゃなくて、「ギターうるせえ」とか「なぜかピアノの音割れてる」とか「スネア、なんでこんな音!?」とか、そういうのも含む。というのが、よけい手がつけられない。
    当時としてはあきらかにラジカルで異質だったけど、今はこういうのも普通になったよね。時が経ってから聴き直すとそう思う音楽も多いが、この人たちは違う。今聴いてもあきらかに異質だ。「スッと作れば王道J−POPなのに、なんでそんなことする!?」だらけだ。そこがたまらなく素敵なユニットだったんだなあ、と、改めて思う。
    解散後、NATSUは、Dragon AshのギタリストHIROKIのバンド、Dt.で活動した(というか当時は「Dragon AshのサポートやってたDt.のHIROKIが正式メンバーになった」という認識でした)。
    鈴木秋則は、ソロアーティスト/ジャニーズ/アイドル/バンド/お笑い芸人などなど、大メジャーからアンダーグラウンドまで手掛ける、しかもプロデュース・作詞・作曲・編曲・エンジニアリング・ライブのサポート等、なんでもやるクリエイターとして活躍中で、よく名前を見かける。
    最近の仕事を調べてみたら、古都の夕べのレコーディングまわりはもちろん、ライブ映像の撮影までしていて、びっくりした&笑った。あ、古都の夕べ、数年前に、ちょっと面識のあるドラマーが入ったバンドなもので(日本マドンナのさと子)。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

CHIEKO BEAUTY

配信はこちらから

当時は比類なき存在、そして今もやはり比類なき存在

CHIEKO BEAUTY

  ピアニカ前田やTOMATOS、後にTOKYO No.1 SOUL SET等も世に出したインディ・レーベル、ナツメグから、1990年に作品リリースをスタート。
    1992年6月21日、元MUTE BEATのこだま和文にプロデュースを依頼し、MUTE BEAT、東京スカパラダイスオーケストラ、TOMATOSのメンバーたちが曲提供や演奏で参加した全8曲のアルバム『BEAUTIY'S ROCK STEADY』でメジャー・デビュー。「夏の思い出」等の童謡のカバーとオリジナル曲をとりまぜた構成だった。
    1993年5月21日リリースのセカンド・アルバム『L』は、藤原ヒロシがプロデュース。当時メジャー・デビュー直前だったヒップホップ・レゲエMC、BOY-KEN等が参加している。全11曲で、カーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」等のカバーも4曲収録されている。
    この 2作と、ファースト・アルバムより前の1991年にリリースしたキャンディーズ「ハートのエースが出てこない」のカバー・シングル(ポッカのCMのためにレコーディングされた曲)が、キューン・ソニー在籍時の作品で、このたびこうしてストリーミングで聴けるようになった曲たちである。それ以降の作品は、レーベルをBAD NEWSに移してリリースされることになる。
    という、プロデューサー陣・参加ミュージシャン陣の、黎明期にあった日本のダブ/レゲエを代表するような錚々たる顔ぶれからも、このCHIEKO BEAUTYという(当時)新人シンガーが、どのような存在だったのかが、うかがえる。
    レゲエとJ-POP(この頃まだそんな言葉はなかったが)、その最初の橋渡しになれる才能として期待された、ということだ。そして、実際にその期待に応えた存在だった、ということでもある。
    今でこそ、そのようなアーティストは他にもいるし、レゲエに軸足を置いてメジャー・ブレイクした例もあるが、当時はごく限られていた。どれくらい限られていたかというと、先に名前が出てきたミュージシャンたちでほぼすべて、と言っていいくらいだった。
    ましてや、女性のシンガーとなるとさらに限られていたわけで、その中にあって、それこそ童謡を歌ってもぴったりはまるような、素直でまっすぐな響きの声でありながら、同時に、ナチュラルにダブのタイム感やグルーヴを併せ持った歌を歌うことのできる存在など、CHIEKO BEAUTY以外には存在しなかったのではないか。
    と、ここまで書いて、改めて思った。そんな歌を歌える人、今でも、ほぼいないかもしれない。もっとR&B寄りで力強く歌える人はいるし、もっとヒップ・ホップ寄りでラップするように歌える人もいるが、CHIEKO BEAUTYのように歌える人は、今だったら誰だろう……と考えていくと、彼女の「昔も今もワン&オンリー」っぷりが、わかると思う。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

チューインガム・ウィークエンド

配信はこちらから

美しく冷たい狂気を放つギター・サウンド、2020年に発掘される

スキップカウズ

  1991年、札幌市にて、ヴォーカル&ギターの橋本孝志とギターの岩田晃次を中心に結成。bloodthirsty butchersやイースタンユース等の札幌パンク・シーンの潮流から登場したというか、彼らの後輩にあたるようだ。
    1992年に上京、1996年にシングル「あの娘をつかまえて」でメジャー・デビュー。マネージメントはザ・ブルーハーツやBOOM BOOM SATELLITES、SNAIL RAMP等が所属したジャグラーだった。ファースト・アルバム『the chewinggum weekend』をリリース後に、プロのセッション・ドラマーとして活動していた夏秋文尚が正式加入する。
    シングル4作、アルバム2作をソニー・レコードからリリース、2000年にUKプロジェクトに移籍してシングル3作を発表するが、2001年に岩田晃次の脱退により解散。
    ベースの鈴木淳はthe pillowsのサポートを長く務めた後、2018年に西早稲田でアコースティックライヴパブBLAH BLAH BLAHをオープン。仲間のミュージシャン等が多数出演している。橋本孝志は長らく音楽活動から離れていたが、2014年にライヴ活動を再開。2016年には、大森靖子シンガイアズなどでベースを弾いているえらめぐみ等とthe MADRASを結成し、2019年にはファースト・アルバム『awake』をリリースしている。
    以上が、このTHE CHEWINGGUM WEEKENDというバンドの経歴だが、彼らのデビュー当時に音楽雑誌にいて、ライヴを観たりインタビューをしたりしていた者のひとりとして、強く印象に残っていることを何かひとつ挙げるとしたら、ファースト・アルバム『the chewinggum weekend』と、セカンド・アルバム『KILLING POP』では、音楽性がガラッと変わった、ということだ。
    より正確に言うと、ファーストの後のシングル『アイス』と『ロマンス』から、大きく変わった。ファーストでは、ネオアコ成分多めな、柔らかな触感の音作りだったのが、『アイス』以降はギザギザに歪んでいてザクザクと響いてくるギター・サウンドになった。
    要はラウドでノイジーになったと言えるが、それにつれて橋本孝志のヴォーカルが熱く激しいものになっていったのかというと、逆で、何かヒンヤリとした狂気がにじむ、冷蔵庫から刃物を出して首筋に押し当てられたみたいな感触をもたらすものになっていった。それがとても不思議で、たまらなく魅力的だったことを、このたびこうして聴けるようになった当時の音源に触れ直して、改めて思い出した。あと、岩田晃次の弾くギター、(称賛の言葉として)本当にどうかしていることも思い出した。
    なお、前述の『アイス』と『ロマンス』の2作。それぞれ3曲ずつ入っていて、後のセカンド・アルバム『KILLING POP』には収録されていない曲もあったりするのだが、どちらも、3曲ともすばらしいので、ぜひ飛ばさずに聴いていただければと思う。
    それから、ファースト・アルバムまでの楽曲も、当時の渋谷系の潮流とリンクしていた、とも言えるところが、興味深くもある。当時は全然そんなこと感じなかったけど、今聴き直して、初めてそう思いました。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

スキップカウズ

配信はこちらから

名曲製造機バンド・90年代の音源は、2020年の今も輝いている

スキップカウズ

  「今度やる新人バンド、観てくれない?」と旧知のディレクターに誘われて、ライヴハウスに足を運んだ。ライヴが終わって「どう?」と感想を訊かれた。「うーん……俺がディレクターだったら、やんない」と、正直に答えた。「なんで? 曲、よくない?」「いや、曲はいい。とてもいい」「だろ? じゃあ、やっぱり、あれか?」「……うん」。
    要は、「このルックス、売りにくい! パッとしなさすぎる!」と思ったのだった。んなことねえよ、そんなバンドなんぼでもデビューしてるし、ブレイクしてるのだっていくつもいるよ、というのは、2020年の今だから思えることです。 1997年当時は二の足を踏むのに充分な理由でした。それ以降にデビューしたあのバンドとか、どかーんと売れたあのバンドとか、うーん、やっぱり具体的に名前を挙げるのがはばかられますね。でもそのどれとも仕事したことあるな、俺。ともあれ、それらのバンドが出てくるよりも、全然前の時代の話です。
    とはいえ、結局ソニーレコードからメジャー・デビューしたそのバンドを、当時所属していた音楽雑誌で大プッシュしたのも、事実なのだった。なんで。その楽曲たちの、あまりのよさに、抗えなくて。
    JBマナーのド派手な衣装で登場し、ラジオ・パーソナリティまんまのおもしろMCをかまし(後にほぼ本職がそれになる)、ライヴハウスのフロアを練り歩いて客をいじるヴォーカリスト、イマヤスのキャラによって、まず人気が出たようなところもあったが、実はそれは二の次だったりする。いちばんの魅力は、ギター遠藤肇の生み出すメロディを、かすれてしゃがれたイマヤスの声が形にしていく、それが耳に飛び込んできた時のあの感覚。明るさとやるせなさ、ばかばかしさとせつなさ、笑いと涙、そんな相反する感情が同時に脳内に渦巻いてしまう、あの感じ。そんなものをもたらしてくれるのは当時このバンドだけだったし、今だってこのバンドだけなんだなあ、と、こうして配信が始まった3作のアルバムを聴き直していると思う。
    いやあ、いい曲、いい声、いいリリック、いい演奏、つくづく。と、感じ入るたびに、当時このバンドがブレイクに至らなかった、その責任の一端は自分にもあることを思い出して、どんよりしたりもする。ただ、であっても、今からでもいいので、ぜひ触れてほしい、とも思う、まだの方は。
    あとひとつ。デビュー当時、ベースの小川雄二が、遠藤肇の書く曲はネオアコの匂いがする、それに惹かれて自分は加入した、というようなことを言っていた。バンドのキャラがネオアコとは程遠かったのもあって、当時は「そうかなあ?」としか思わなかったが、今聴き直すと「ほんとだ!」と納得します。失礼しました、ユーヤン(小川の愛称)。23年経って謝られても、って話ですが。なお、スキップカウズは、紆余曲折いろいろありつつも、現在も活動中。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

睦 [井上睦都実]

配信はこちらから

スペシャルサイト

時を経ても色褪せない「最初からタイムレスだった歌」

睦 [井上睦都実]

    1970年に熊本で生まれ、9歳から18歳まで福岡で育つ。高校卒業後に上京、1988年頃からモデルとしての活動をスタートする。
    1992年にソニーレコードより井上睦都実としてデビュー。2002年の結婚を機に、芸名を睦(ムツミ)に改める。デビュー直後から作詞家としても活動しており、島谷ひとみやAFTERSCHOOL、椎名へきるなど、多数のアーティストの作品を手掛けてきた。ソニーレコードからはフル・アルバムを3作、ミニ・アルバムを1作、シングルを5作リリースしており、2017年10月には、それらの音源から本人が14曲をセレクトし、最新曲4曲も加えたコンプリート・ベスト・アルバム『睦まじい日々-1992-2017-』がリリースされた。
    そしてこのたび、ソニーからの音源がこうして聴けるようになったわけだが。改めて聴き直す前の段階で、その作曲・編曲のクレジットに、まず目を奪われる。
    高野寛。田島貴男。片寄明人。小西康陽。高浪敬太郎。井出泰彰。何これ。才能大集合じゃん、当時の。いや、「当時の」じゃないか。今に置き換えてもそうか。という事実は、これらの作品が作られた頃も知ってはいたが、年月を経た上でこうして触れ直すと、やっぱりまず驚くし、音源を改めて聴くと、もっと驚く。
    洗練の極み、どの曲も。こんなにストレスのない、かと言って「ひっかからない」とは真逆の音楽、そうそうないのではないか。
    関わっている作家がさまざまなので、当然、音楽の手法はさまざまだし、どの作家が書いた曲か、どの作家がアレンジした曲かが聴くとわかるくらい、それぞれのカラーがはっきり出ているが、それらをすべて、言わば「井上睦都実というジャンル」として聴かせてしまう、不思議な統一感がある、どの作品にも。
    作詞はすべて井上睦都実本人だから、とか、同じ人が歌っているから、という理由だけでは、きっとない。井上睦都実のヴォーカルは、自分の個性を際立たせよう、というのとは反対の、むしろそういうエゴが前に出ることを避けるような、淡々と美しい歌いっぷりだし。ただし、そういう歌声の方が、曲そのものの魅力を最大限に引き出すことがある、いつでもどこでも常にそうだというわけではないがそういうケースもある、ということを、この作品たちが証明している、というふうにも言える。
    今聴いても新しい、とは思わない。でも、今聴くと懐かしいとか古いとも思わない。そのようなタイムレスな輝きを、28年前も、現在も、この曲たちは放っている。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

SUPER JUNKY MONKEY

配信はこちらから

7インチアナログ再発

まさに不世出のバンド。日本でもっとも自由なミクスチャー、SUPER JUNKY MONKEY

SUPER JUNKY MONKEY

    今年結成30周年、現在もきわめて精力的に活動中のフラワーカンパニーズが、1994年に所属マネージメントが決まって、上京して来た時のこと。同じタイミングで新しく事務所に入った、全員女の子のバンドがいるというのを知り、ライヴを観に行ったそうだ。で、「……ダメだ、俺ら」「……プロをなめてた」「名古屋に帰ろうか……」と、すっかり打ちひしがれてライヴハウスを出たという。
    がんばれ。あきらめるな。きみたち、25年もまだバンドで食っていられるから、と当時の彼らに言いたいが、そういう気持ちになってしまったのもよくわかる、というか「そりゃなるよね」と思う。その直前にライヴを観て(確か渋谷ラ・ママだった気がする)、僕はバンドマンじゃないから打ちひしがれることはなかったものの、「うっわあ、なんじゃこりゃ!」と、心底びっくりしたのを、よく憶えているので。
    この超いかつい音を女の子が出しているからびっくりした、というレベルではない。当時、ミクスチャー・ロックは、アンダーグラウンドなシーンでは日本でも始まっていたが(真心ブラザーズが『KING OF ROCK』を出したのがその翌年だ)、その最先端にして最強な人たちが出て来てしまった、そういう存在だった、この人たちは。
    リヴィング・カラーやリンボー・マニアックスは数年前にデビューしていたが、日本でそこまで脚光を浴びることはなかった。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンはすでにデビューしていたが、日本でもブレイクしたのは確かもうちょっとあとだった。
    という時期に現れた、しかも「それまでのミクスチャーをなぞる」のではなく「自分たちのミクスチャーを作る」バンド、SUPER JUNKY MONKEY。1994年の時点において衝撃でしょう、それはもう。「何をやってもいい」という音楽的な自由さに満ちたバンドだったが、それは「だいたいのことならできる」演奏力を持っていたから、ということでもある。
    国内にも──先にも書いたが──インディ・パンク・シーン(AIR JAM勢とつながるような)にすばらしいミクスチャー・バンドはいくつか存在したが、それらの中でもっとも型破りで自由だったのがSUPER JUNKY MONKEYだった、と言ってもいいと思う。「歌詞は全部英語」とかいうような、当時のそういうバンドのセオリーからも自由だったし。ユーモラスでキャッチーなところもあるし。デビューするや否やアメリカでも注目され、ファースト・アルバム『SCREW UP』が全米リリースされたのもうなずける。
    今回聴けるようになったのは、ソニー・ミュージック・レコーズからリリースされたデビュー・ミニ・アルバムとアルバム3作。今聴いても異様にかっこいい。いや、「今聴いても」じゃない。今聴くと、よりいっそうかっこいい。
    ヴォーカルの高橋睦が1999年に亡くなってしまったので、それ以降ニュー・アルバムは出ていないが、その10年後にリキッドルームでメモリアル・ライヴを行って以降、数年に一回のペースでライヴをやる、という形で、バンドは存続している。
    余談。ファースト・アルバム『SCREW UP』の1曲目「宿直の長老は遅漏で候」、リリース当時に聴いた時、何がなんだかさっぱりわからなくて混乱したんだけど、これ、ケチャだったんですね。当時、ケチャというもの自体を知らなかったんです。お恥ずかしい。失礼しました。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

dip in the pool

配信はこちらから

80年代から鳴っていたこの音に、世が追いついたのは活動休止の頃だった

dip in the pool

    1985年にデビューした、モデルの甲田益也子と作編曲家の木村達司によるユニット。当時、最初は洋楽誌ロッキング・オンによく載っていて、1986年以降はその年創刊された邦楽誌ロッキング・オン・ジャパンによく載るようになっていたので、その存在は知っていた。が、ファンではなかったというか、正直、自分とはかなり距離のある人たちだと認識していた。
    なんで。あまりにもオシャレなので。男女ふたりのユニットで、女性はモデルだし。歌詞、英語だし(日本詞の曲もあるが)。なんかゆっくりでふわふわしている音で、どう位置づければいいのかもわからなくて、「新しいんだろうなあ」くらいしか言えないし。
    要は、「ドクター・マーチンほしくてたまらないけど高くて買えない」とか「ドラムはやっぱりツーバスの練習をするべきだろうか」とか、そんなことしか考えていない、やかましい音ばかり聴いていた田舎の高校生の自分には、まったく縁のない音楽だったわけです。書いていて思い出した。当時、洋楽ロッキング・オンの某常連投稿者がギターを弾く人で、dip in the poolのレコーディングに参加した、ということを書いていた。で、甲田益也子にレッド・ツェッペリンを聴かせたら、「あら、ツェッペリンってギャング・オブ・フォーに似てるのね」と言われて「キイィッッ!」となったそうだ。それを読んで私も「キイィッッ!」となったのを憶えています。
    というわけで、このユニットが活動休止した1997年頃だっただろうか、ようやく初めてちゃんと聴いてみて、ぶったまげることになる。え、こんな時代からこんな先鋭的なことやってたの? いや、先鋭的なだけじゃない。歌もののポップ・ミュージックとしての美しいフォルムを持っている。にもかかわらず、歌謡曲みたいな土着感もなければ、逆に「洋楽をそのまま真似しました」みたいな借り物感もない。近い人いたっけ、誰か。ええと、コクトー・ツィンズ。違う、あれ、もっと普通にギター・バンドっぽい音だ。スウィング・アウト・シスター? いやいや、あんなにベタじゃない。というか、そもそも何かのジャンルの中にいない。本当に「dip in the poolの音楽」としか言いようがない。
「この楽器の音はこう使うべき」みたいなマニュアルにまったく縛られていなくて、自由奔放に音が編まれているのに、実験性よりも耳への快楽の方が優先されているこのトラック、いったいどういうふうに発想してどんな具合に組み立てていたのか、とても気になる。2000年代にこれをやっているとしたら、お手本になるものはいくつもあっただろうけど。そうか、逆にdip in the poolをお手本にした人はいっぱいいるんだろうな。
    このたびこうして聴けるようになったのは、1993年から1997年までの間に、エピックに残した『静かの海』『KM93.11』『7』の3作のアルバムとシングル5作。『7』あたりになると、わりと普通に聴けるようになります、ようやく周囲にもこういう音のアーティストが出てきた頃になるので。それでも充分に先鋭的だけど。
    なお、dip in the poolは2006年に再始動、2011年と2015年にニュー・アルバムをリリースしている。

ロッテンハッツ

配信はこちらから

ひとりいればバンドが成立するミュージシャン/シンガー/ソングライターが6人も、ひとつのバンドにいたことのほうが、何か嘘のように思えてしまう

ロッテンハッツ

    1989年、東京にて、モッズ・シーン/ネオGSシーンにいたバンドマンたちが中心となり、結成。1991年秋、UKプロジェクト内のRICE RECORDSから初めての7曲入りの音源『ROTTEN HATS』をインディ・リリースするや否や、各メジャー・レーベルの争奪戦になり、最終的にソニー内のトレフォートがこのバンドを獲得(リリースの頃にはソニー・グループ内の組織変更により「キューン・ソニー」という会社になっていた)。
    1992年9月21日にファースト・フルアルバム『Sunshine』をリリース。リカットされたシングルTBS系金曜21時のテレビドラマ『ホームワーク』の挿入歌になった。翌1993年10月1日には、セカンドアルバム『Smile』をリリースするが、1994年には解散。
    その後、ヴォーカルの片寄明人、ベースの高桑圭、ドラムの白根賢一はGREAT3を結成、もうひとりのヴォーカルの真城めぐみとギターの木暮晋也とギターの中森泰弘はヒックスヴィルを結成、それぞれメジャー・デビュー。
    で、それから25年が経った、2019年現在。片寄明人は、古くはフジファブリック、最近ではDAOKOやTENDOUJI等、多数の新人を手掛けるプロデューサー。妻であるChocolatとのユニット「Choclat & Akito」でも活動するほか、NHK-FM毎週日曜夕方の番組『洋楽グロリアス・デイ』のDJを長年担当している。高桑圭は、ソロ・アーティストCurly Giraffeとしての活動と、佐野元春&THE COYOTE BANDなど多数のミュージシャンのサポートも務める。白根賢一は、ライヴやレコーディングのサポート・ドラムだけでなく、プロデュースや曲提供も手掛けているし、Manmancerという名義でソロ活動も行っている。休止していたGREAT3は、2012年に高桑が脱退、代わりにjanが加入して活動を再開した。近年は動いていないが、解散はしていない。
    真城めぐみ、木暮晋也、中森泰弘のヒックスヴィルは、現在も活動中。真城めぐみも、木暮晋也も、多数のアーティストのサポートを務めている。真城めぐみと中森泰弘は、ザ・クロマニヨンズの真島昌利と3人で「ましまろ」というユニットを組み、2作のアルバムをリリースし、ツアーも行っている。
    というふうに、それぞれが長きにわたり活躍中である現在を見ると、短い期間とはいえ、ひとりいればバンドが成立するミュージシャン/シンガー/ソングライターが6人も、ひとつのバンドにいたことのほうが、何か嘘のように思えてしまう。
    ブルースやカントリーやフォークやAORをベースにした歌謡曲感ゼロの音楽性。ウッドベースやカズーやバンジョー等も用いたアコースティックでトラッドな楽器編成。平易の極みのような日本語で綴られる歌詞。いずれも、音楽を知り尽くし探求し尽くした末に素朴でシンプルな世界に辿り着いたような存在、それがロッテンハッツだった。
    当時、その才能が正当に世の中に受け入れられた、とは言い難いが……というか、正当に受け入れられる前に早々とやめてしまった、とも言えるが、当時この音楽がいかに先鋭的であったか、そしていかに今聴いても一切色褪せない普遍性を持っていたかは、このたびこうして聴けるようになった、キューンに残した音源が示していると思う。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

宮田和弥

配信はこちらから

20代の頃も、50代の今も、メロディと言葉をとんでもなく輝かせる天賦の才である宮田和弥の歌は、30代のこの頃も、鮮やかに、まっすぐに、耳に突き刺さってくる

ロッテンハッツ

    解散する3年前。寺岡呼人が脱退し、その前のベーシストの伊藤毅が復帰したタイミングで、JUN SKY WALKER(S)はエピックへ移籍した。そして、1997年に解散した後も、ヴォーカルの宮田和弥はエピックに留まり、1998年に『smash』、1999年に『HERE』と、2作のソロ・アルバムをリリースしている。このたび聴けるようになったのは、その2作である。その後、宮田和弥は、2003年に元ユニコーンの川西幸一らとジェット機を結成、2007年にはジュンスカが再結成。再結成後の2010年にもソロ・アルバムを作っているが、純然たるソロとして活動したのは、このエピックの時期だけ、と言える。
    基本的に、宮田和弥という人は、発言にも、行動にも、書く歌にも、その時思っていること、感じていることがそのまんま出てしまう、というか「そのまま出さないと生きていけません」っていうくらいの、ものすごく正直なアーティストである、と、僕は思っている。どんな理由であれ、自分の音楽の受け手に対して、何か嘘をついたり、自分を大きく見せたり、逆に小さく見せたり、ごまかしたり、フワッと曖昧にして提示したりすることが、とにかくイヤなのだと思う。
    ましてや、バンドを失って、ひとりになって音楽を作ると、その正直さにさらにブーストがかかることになる。という意味で、この時期のこの2作のアルバムというのは、今聴いても、いや今聴くと、よりいっそう、おもしろい……って、おもしろがっちゃ申し訳ないか。「興味深い」「だから惹かれる」という言い方に、訂正します。
    インダストリアルなサウンド・プロダクトの「リズム」でスタートし、アコースティック・ギターの弾き語りで始まる「Login Dance」に続き、やはり弾き語りがベースになっている曲調の「21c」へ連なっていく『smash』もそうだ。全体にバンド・サウンドに回帰しているが、トータル的な方向を決めてサウンド・プロデュースしたというよりも、「1曲1曲にふさわしいアレンジを考えました」というふうに作ったのではと思わせる『here』もそうだ。
    特に後者。「赤いナイフ」には「どこにももう逃げられない 誰ももう助けてはくれない」というラインがある。その前の曲は「崖っぷちでハロー」というタイトルである。「ヒラリ」では「僕になれるかな 本当のバカになりたいんだ」と歌っている。
    ただ、どの曲も、ジュンスカが解散して窮地に追い込まれた宮田和弥の個人の状況ではあるが、彼だけでなく当時解散を経験したバンドマンの多くが経験したことでもあるし、バンドマンでなくても、自分に置き換えたり自分と照らし合わせたりして曲の世界に入っていくことができる表現になっている。それも「ああ、わかるねえ」くらいではなく、どっぷりと。
    苦い。重い。切実。だから、沁みる。20代の頃も、50代の今も、メロディと言葉をとんでもなく輝かせる天賦の才である宮田和弥の歌は、30代のこの頃も、鮮やかに、まっすぐに、耳に突き刺さってくる。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

ザ・カスタネッツ

配信はこちらから

聴き手を一切選ばない、誰のことも疎外しない、メロディと声とリリック

ザ・カスタネッツ

    このバンド、なんでブレイクしなかったんだ!? と、納得がいかないことは何度もあるが、個人的には、90年代においてその中でトップと言っていい。いや、00年代以降を含めてもそうかもしれない。自分が好きであることを棚に上げて、極力冷静かつ客観的な耳で聴いても、そういうふうにしか思えない。聴き手を一切選ばない、誰のことも疎外しない、このメロディと声とリリックは、もっともっと広く世に届くポテンシャルを持っているのに、90年代ならミリオンセールスを記録しても不思議じゃなかったのに、と、今聴き直しても思う。
    初めて聴いたのに、前から知っていたように耳になじむ。なのに、何度聴いても飽きることがなく、いつでも新鮮に響く。自分の思いを綴ることが、そのまま普遍的な物語に化ける牧野元の詞。抑揚が大きくてドラマチックなのに、まるで話しているみたいに自然に耳に届く、同じく牧野元のメロディ(声がいい、というのも重要)。コード一発の豪快さと、エフェクターで多様な音色を奏でる繊細さの両方を駆使して曲の世界を作り、広げていく小宮山聖のギター。いずれもすばらしいし、今聴いてもまったく古くなっていない。最初から懐かしかった、と言えるかもしれない。
    1987年に明治学院大学のサークルで、ボーカルの牧野元とギターの小宮山聖を中心に結成。1995年にソニー傘下のアンティノスレコードからメジャーデビュー、『LIVING』『PARK』『MARKET』『khaki』の4作のオリジナルアルバムと、ベストアルバム『9599』をリリースし、2000年にはドラムの金野由之が脱退して活動休止、2002年から活動再開。以降は、メンバーチェンジ等ありつつも、下北沢CLUB Queを中心に活動中。現在も熱心なファンが集まり、ワンマンを行うたびにソールドアウト。アンティノスを離れた後も、3作のアルバムを発表している。
    現在は、牧野元と小宮山聖に、高橋優やChage等のサポートも務めるベーシスト小島タケヒロと、元THE COLLECTORSで現在チリヌルヲワカ等でもプレイ中のドラマー阿部耕作が加わった4人。2018年には牧野元が舌癌に罹ったことを発表、夏の活動を休止し手術を受けたが、秋にはライブ復帰した。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

デキシード・ザ・エモンズ

配信はこちらから

不思議で、愉快で、曲と演奏がとてもいい、すごいバンド

デキシード・ザ・エモンズ

    90年代から活動を続ける下北沢の名物レーベルであり、近年ではKEYTALKをブレイクさせたことで知られるK.O.G.A Recordsからのリリースで知られるようになったデキシード・ザ・エモンズ(以下デキシー)は、1997年から1999年までエピックソニーに所属し、『ROYAL LOUNGE』『Berry, Berry Bo, hho』『S,P&Y Sound, Pew & Young』をリリースした。今回こうして聴けるようになったのはその3作のアルバムとシングル収録曲を含む全てのエピック音源。
   「英国60年代」「モッズ」「ソウル」「R&B」といった自らのルーツとなる音を忠実に再現しようと、アレンジや演奏はもちろん、機材やレコーディング方法にまで徹底的にこだわり抜いていたバンドで、ゆえに音源ではしっかり60年代まんまの音が鳴っていたことを記憶していたが、このたびこうして聴き直したところ、全然それだけじゃないことを、改めて強く感じた。
    60年代まんまの音で今の自分たちを描くと、こんなに新鮮で新しいものになることもある。という実験がデキシーだったんだなあ、ということだ。日本語だし、その日本語が自然にのっかるメロディだし。この少し前に流行ったネオGSブームのバンドたちとも違うし(元々近い界隈にいたのだとは思うが)。そもそも当時、バンドなのにボーカル&ギターのアベジュリーとドラムのハッチー・ブラックボウモアのふたり、って「なんじゃそれ」と思ったし、それぞれの名前にも「なんじゃそれ」と思ったし(※後にハッチーはハッチハッチェルと改名)。
    2006年に解散するまで、そのような、不思議で、愉快で、曲と演奏がとてもいい(いわゆる「うまい」演奏とは違う、「味がある」「というか味だらけ」な演奏)バンド、というふうに認識していたが、ひとつ付け足しておくべきだった。不思議で、愉快で、曲と演奏がとてもいい、すごいバンド、というふうに。
    解散以降、アベジュリーもハッチハッチェルも、自身のバンドや他ミュージシャンのプロデュースやサポートで活躍中。2014年2月22日には、K.O.G.A Recordsの20周年を機に、レーベルオーナーの古閑裕にひっぱり出される形で、リキッドルームで復活ライブを行った。以降、不定期だが、時々ライブを行っている。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

ワイヨリカ (Wyolica)

配信はこちらから

スペシャルサイト

J-POPのどまんなかで勝負できる歌ものであることと、クラブのフロアで鳴って成立すること、その両方を併せ持つ

wyolica(ワイヨリカ)

    ヴォーカルのazumiとギター/プログラミングのso-toのふたりで1997年に結成、1999年5月にシングル「悲しいわがまま」でエピックからデビュー、2002年2月に、大沢伸一プロデュースのファースト・アルバム『who said “La La…”?』をリリース。以降、計4枚のアルバム、2枚のミニ・アルバムをリリースするも、2011年には実質的に活動が止まり、2013年5月に正式に解散する。
    しかし、デビューからぴったり20年にあたる2019年5月21日に、再結成を発表。同年8月7日に、新曲3曲と新録音1曲を含む全30曲のベスト・アルバム『Beautiful Surprise ~Best Selection 1999-2019~』を、その1週間前にはアナログ7インチと各定額配信サービスでシングル「Beautiful Surprise/OneRoom」をリリースした。
    そのシングルの2曲が、ワイヨリカの、各定額配信サービスにアップされた初めての曲で、それに続いてエピック時代の作品も、こうして聴けるようになった、ということだ。
    ワイヨリカがデビューした1990年代末期~2000年代初期は、国内でもヒップホップがチャートの上位にランクインするようになっていったり、R&Bをベースにした女性シンガーが人気を博して「Diva」と呼ばれるようになったり、テクノやハウスといったダンス・ミュージックが広く聴かれるようになっていった頃でもあった。要は、クラブ・ミュージックがJ-POPと結びついて、オーバーグラウンドになっていった季節だったわけだが、その「オーバーグラウンドにした」立役者のひとりが、いや、ふたりか、とにかくそれがワイヨリカだった、と言っていいだろう。
    J-POPのどまんなかで勝負できる歌ものであることと、クラブのフロアで鳴って成立すること、その両方を併せ持ったワイヨリカの作品は、同じような志向を持つ当時の新人アーティストの中でも抜きん出て輝きを放っていたし、だからデビューとほぼ同時に広く熱く支持されるようになった、ということだ。
  「さあいこう」、「ありがとう」、Kj(Dragon Ash)参加の「風をあつめて」などの名曲の数々が、今こうして聴けるようになったことは、当時のファンにとってはもちろんのこと、ワイヨリカを知らない世代にとっても、とても意味のあることだと思う。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

松崎ナオ

配信はこちらから

トピックス

聴き逃していい瞬間がもう本当にない彼女のソングライティングは、ある意味、デビューの時点で完成していた

松崎ナオ(NAO MATSUZAKI)

    NHK総合のドキュメンタリー『ドキュメント72時間』のエンディングでは、テーマソングとして、松崎ナオの「川べりの家」が、かかり続けている。2006年の番組開始から2019年現在まで、つまり13年間ずっとこの曲である(バージョンは一度変わったが)。という事実も、彼女がどんなアーティストであるかと表している、と言えるのではないか。
    1976年生まれのシンガー・ソングライター。エピックに在籍したのは1998年から2002年までで、ミニアルバム『風の唄』でデビュー、フルアルバム『正直な人』『虹盤』の通算3作品をリリース。以降、インディーズで長く活動を続けている。昔も今も同業者からリスペクトされる存在であり、2017年には以前から親交のある椎名林檎とコラボしたデジタル・シングル「おとなの掟」を発表したり、2018年からは3ピース・バンド「鹿の一族」を結成して、リリースやライヴを行ったりもしている。
    シンプルなサウンド・プロダクトにのせて、言葉とメロディをひとつひとつくっきりと刻み込むように曲にしていく。喜怒哀楽それぞれの感情や、それらが重なった感情や、それらの間の感情や、それらのどれでもない感情を、絶妙に掬い上げていく。「ラブソング」というよりも「コミュニケーションの歌」や「ディスコミュニケーションの歌」と形容したくなる、他者と己の「ままならなさ」を表していく。
    そんな、聴き逃していい瞬間がもう本当にない彼女のソングライティングは、ある意味、デビューの時点で完成していたことが、当時の作品を今聴き直すと、わかる。このあと、時期によって、サウンド・プロダクトやレコーディング方法等はいろいろ変化・進化していくし、曲そのものも洗練されていったりはするが、その芯にある強いものは変わっていない、まったくぶれていない、そう感じる。
    エピックを離れて以降の作品は、各定額配信サービスに音源が揃っているし、エピック時代の作品も、最後の『虹盤』は以前からアップされているが、『風の唄』と『正直な人』は廃盤になって以降、触れることができる場所がない状態になっていた。それがこうしていつでも聴ける状態になったことを、素直にうれしく思う。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。

The CHANG

配信はこちらから

7インチアナログ再発

「この後何度も流行った音」「そして今また流行っている音」のスタイルが、既にここで鳴らされている

The CHANG

    CHEMISTRY、ハナレグミ、小泉今日子、大橋トリオなど、サポート・ギタリストとして、そしてプロデューサーとして、多くのアーティストを支える石井マサユキが、最初にプロとして活動したバンドである。レーベルはエピック・ソニー、マネージメントはアミューズ。1995年、屋敷豪太プロデュースのもと、シングル「今日の雨はいい雨だ」とアルバム『DAY OFF』でメジャー・デビュー。1996年には同じく屋敷豪太プロデュースでセカンド・アルバム『acton』をリリースするが、バンドとしての活動はここまでで終わる。
    そこから石井マサユキは、ボーカリスト武田カオリとふたりでTICAを結成し、2009年頃まで活動することになる。以降もサポートやプロデュース、映画の劇伴等で活躍しており、2019年には井出靖が結成した25人編成のTHE MILLION IMAGE ORCHESTRAに参加。6月26日にリリースされたアルバム『熱狂の誕生』では、このバンドで「今日の雨はいい雨だ」をリメイクしている。
    ソウル、ブルース、サーフ・ミュージック、アシッド・ジャズ、AOR等のエッセンスを、洋楽と邦楽の境界線がいい感じで曖昧になってきた当時ならではの手つきで、「日本語の歌もの」としてまとめあげる──音楽性を無理やり説明すると、そんな感じだろうか。
    とにかく、「この後何度も流行った音」「そして今また流行っている音」のスタイルが、既にここで鳴らされていることに驚く。試しに、今人気のある、近い系統の音のバンドと、並べて聴いてみてほしい。まったく古くなっていない、そして、まったく負けていないことが、よくわかるはずだ。
    シンプルで意味の明確な言葉を使って、「暗くはないけど疲れてはいる」みたいな、明るい倦怠を感じさせる歌詞の世界も、聴き手を強く引き込むものを持っている。という点も、今聴いてもまったく色あせていない。
    世間的に広く知られるようになる前に活動が終わってしまったバンドだが──それは今「世間に気づかれなかったから終わった」というよりも「短期間すぎて世間が気づく前に終わった」という方が近いのではないか、と、今になると思うが──現在活躍している20代~30代のバンドが「実はThe CHANGを聴いていました」と言っても、納得こそすれ、驚きはしないだろう。「早すぎた」とか「あとから時代が追いついた」みたいな言い方、手垢にまみれすぎていて普通使うのがためらわれるが、このバンドを形容する時に限っては、許していただければと思う。

ブラウザによっては正常に表示されない場合がございます。予めご了承ください。