後藤美孝 インタビュー

INTERVIEW WITH YOSHITAKA GOTO

聞き手:吉村栄一

●後藤さんと坂本さんの出会いについて教えてください。

「最初はどこで会ったのか、よく憶えてないです。ただ友人や知人のグループの中にいて自然と話すようになったんじゃないのかな。いつも本を抱えていて、レヴィ=ストロースとかル・クレジオなんかを原書で持っていたりして。当時は吉祥寺のフォーク・シンガーのバックでピアノを弾いていたと思うんですが、まわりのミュージシャンたちとはあきらかに違った印象でした。思い出すのは、初めてのギャラだと言って喫茶店で封筒から小切手を出してうれしそうに見せてくれたこと、たしか富岡多恵子さんのアルバムの謝礼だったと思います。また、今までジーンズというものを買ったことないから一緒に行ってくれないかと言われ、吉祥寺のハモニカ横丁のジーンズ屋さんに行ったこととか、大晦日に連れ立って友人の実家に押しかけ温泉に行ったとか、音楽と関係ないことばかりです。ぼくが吉祥寺にあった芽瑠璃堂という輸入レコード店の立ち上げをしていた頃(1974年)ですね」

●(笑)その後は一緒に音楽雑誌に執筆したり、仲が深まっていきましたよね。

「音楽雑誌云々の話はだいぶ後のことで、ぼくがPASSをスタートさせてからだと思います。最初に会った頃から、坂本くんは、自らのミュージシャンとしての実践と、それを支える理論の一般則を求めていたような気がする。理屈っぽいと言えば理屈っぽいのだけど、気になった音はまず彼に聴かせてみる。彼はバックグランドとして膨大なクラシックや現代音楽の知識があり、それと“いま”のロックにも接続可能だという聴き方を常にしていたと思う。ちょうど現在の音楽評論のアレックス・ロスみたいな視点で。どのような音でも、彼はひとつひとつ構造解析して、これはこういうことなんじゃないかと分析していた。今でもこれは?と思う音楽に出会ったときは、坂本くんだったらそれをどう語るのかな?と考えることがあります」

●音楽家としての“坂本龍一”はどう見ていたのでしょう?

「芸大でシンセサイザーを扱っていたというのは知っていましたが、1978年、坂本くんは当時西荻窪にあった新星堂の地下で『個展』というコンサートを開き、そこで初めて彼の演奏を聴きました。シンセサイザーにノイズを多用した曲でジャーマン・ロックっぽい音だったんですが、そこに非常に美しいパートがあったりして、とても面白かった記憶があります。また、“音楽家”としての彼に直接関係ないのかもしれませんが、譜面と鉛筆だけを持って、楽器なしでアレンジをしている姿とか、MC-8に数字を打ち込む手際の良さに感心した覚えがあります。その後の渡辺香津美さんらとのフュージョン系の活動にはあまり興味はなく、以前ほど会うこともなくなったかな。期せずしてぼくはレゲエ評論家みたいになってしまって、吉祥寺にあったジョージアという輸入レコード店に移ってからは、PASSをはじめるまでは坂本くんにあまり会うことはなかった」

●その後、後藤さんはPASSレコードを立ち上げて、本格的なコラボレーションが始まった?

「PASSというインデペンディッド・レーベルを立ち上げ、最初にフリクションのシングルをつくったのですが、自主制作の音質的な限界というのを感じ、坂本くんに相談したことからですね。機材やスタジオ選び、エンジニアの手配など、いろいろアドバイスを受け、どうせならプロデュースを、と彼に言った。PASSでは坂本くんに、Phewやフリクションのプロデュースを頼みました。この作業の合間に、この音はこうしようと、お互いにアイデアを持ち寄り、結果的に、それが『B-2 UNIT』制作の起点になったような気がします。Phewの場合、歌以外のサウンドに関してはかなり自由度があったので、彼は楽しんでやったと思います。一方、フリクションの場合はMixの方向性の違いにより多少の“軋轢”がありました。そこで彼らの志向した“開放系”のMixと現行のディスクの2種のMixを用意し、最終的に彼らの判断に委ねました。発売後このMixに対しては様々な意見がありましたが、時を経るにしたがって、そのMixの的確さが理解されていったのかなと」

●そのPASSからのソロ・アルバムの話はどうして潰えてしまったんでしょう?

「やはり、その時期に急にYMOという存在が巨大になっていって、一種のビッグ・プロジェクトになってしまったのが理由です。そのため、坂本くんのアルバムをつくろうと思っても、彼の周辺の人から“いま坂本くんを使う場合、何億用意しないと”みたいな話もされた。彼のアルバムを出すというのはもう無理だろうなと思ったときに「アルファでいっしょにやろう、今までPASSでやった延長線上でいいから」と言われ、承諾しました」

●アルバムの当初の構想はどのようなものだったのでしょう?

「最初にPASSでやろうと持ちかけたときは、イメージとしてブライアン・イーノの“オブスキュア・レコード”のような現代音楽とポップス、ロックを横断する音楽の連作シリーズを考えていました。もちろん坂本くんが演るので、最初はコンピューター+シンセサイザーの“機械”で。そういえば最近、当時の計画書?が見つかり、そこにはコニー・プランクのスタジオで録音を、とか書いてあったんですよね。それは後にPhewのアルバムで別のかたちで実現することとなるのですが、もしあのときやってたらどうなったのかな?と。ちょうどフリクションのレコーディングをしている頃、XTCのアンディー・パートリッジの『テイク・アウェイ』がリリースされ、ぼくのところにアルバムの解説の依頼があったんです。時間もなかったので、坂本くんと吉祥寺時代からよくふたりで話していた音楽談義をそのまま文字に起こし、それを解説とすることにしました。このときのやりとりの中から『B-2 UNIT』の方向性のひとつが具体的なかたちになっていったのかなと思います。」

●ダブへの興味があらためてそこから生まれた?

「この『B-2 UNIT』はダブ・アルバムってよく言われるんですけど、当時、ぼく自身はそこまでダブに入れ込んでいたわけではなく、レゲエに対しても距離を取ろうとしてた時期でした。デニス・ボヴェルに興味を持ったのも、ダブという方法よりもポップグループやスリッツといったパンクの連中との仕事がすごくよかったから。思いきりのいいカットと音数の少ない空間がとても気持ちよかった。一方ではリー・ペリーがミックスしたザ・クラッシュの“コンプリート・コントロール”という混沌そのものの曲があり、それはそれですごいなと思っていました。いずれもレゲエ=トロピカルといったイメージからは無縁だった」

●ドン・レッツを通してデニス・ボヴェルにコンタクトを取ったんですよね?

「彼が撮った記録映画『ザ・パンク・ロック・ムーヴィー』のプロモーションのために日本に来たとき、インタビューに行ったんです。そのときに彼から、なぜそんなにレゲエやラスタのことをよく知っているんだ?と訊かれ、ウェイラーズの連中に会ってインタビューしたこととか、トロージャンのシリーズを監修して、そこでマトゥンビの解説も書いたことがあると言ったら驚いて。今度デニス・ボヴェルを紹介するよって言われ電話番号を預かったんです。それでデニスに連絡したらすぐOKが出た」

●いよいよ『B-2 UNIT』の制作が本格化していったんですね。

「音の原型のほとんどはアルファのスタジオAでつくりました。グンジョーガクレヨンの組原正くんもそこに呼んでギターを弾いてもらったんです。あとはほとんど坂本くん独りで。MC-8での作業は側で見ているととてもストレスがあり、当時、肉体的な音楽は鬱陶しいと嘯ぶいていましたが、やはり何かが足りなかった。それで組原くんに頼んだのかも。坂本くんも最終的には、ドラムスは自分で叩く、と。今になってみると、音楽とはなんなのか?という、古くて新しい問いに“あらたな説明”が要求されていたんだな、と」

●アルファでレコーディングした素材を持って、まずロンドンに行って、デニス・ボヴェルの“スタジオ80”で作業し、その後、エア・スタジオでアルバムを完成させたと伺っています。

「ロンドン行きは、安いチケットが手に入るとのことで、ぼくはピーター(バラカン)に航空券の手配を頼んだんです。彼も同じ時期にロンドンへ行く用事があり、訳詞のこともあったので、ふたりで一緒にロンドンへ行き、坂本くんの到着を待ちました。ぼくらは“スタジオ80”での作業を終えたあと、エア・スタジオに移り“thatness and thereness”のヴォーカルとピアノを仕上げることに。“thatness and thereness”はスタジオAでのレコーディングの初日に、坂本くんがピアノでぽろぽろ弾いたフレーズがすごくよくて、それが原型になっています。そのときぼくは、これは絶対自分で詞を書き歌うべきだ、それも日本語で。と言いました。以前彼の自作の歌を聴いたことがあり、幾何学的な言葉が並ぶ面白い詞だったので、是非つくるべきだと。でも、なかなか詞は完成せず、結局ロンドンまで行っても書けず、ぼくがアウトラインを書くから、この歌にはどういう情景が存在するのかということを訊いて、ではその情景に使いたい言葉は? そこに現れる感情は? というようにひとつひとつ尋ねながら構成していきました。あそこに暗示されたデモの光景と政治的言説に対する不信は、ぼく自身の体験でもあって、その感覚も当時の彼と共有していたと思います。のちに坂本くんが英語の詞にしたいということで、ピーターに訳を頼むことになったんですが、あんな抽象的な言葉が羅列された詞を英訳するなんて、ピーターにしかできない。彼の意訳よってイメージが補強された部分もかなりあります」

●エア・スタジオでのレコーディングやミックスで印象に残っていることは?

「スタジオにはスティーヴ・ナイがいて、当初、彼がペンギン・カフェ・オーケストラのメンバーとは気づきませんでした。ある日スタジオに向かう途中で手に入れた、ブリジット・ライリーのジャケ画のFaust/ Faust Tapesのアルバムを手にスタジオに入ると、そんなの聴くのかと訊かれ、いろいろ話していると、スタジオ・ワンにペンギン・カフェのメンバーがいるよと。さらに自分もそのメンバーで、イーノとならんでプロデューサでもあると言われ、とても驚いた記憶があります。また、隣のスタジオではジャパンがレコーディングしていて、スティーヴ・ナイはそちらも手伝っていました。だからぼくたちのレコーディングを見学しに来たり、坂本くんがゲストで参加したりと。滞在の最後の頃に、アルバム(『孤独な影』)ができたというので一緒に聴きました。やっぱりYMO的というか、坂本くんの影響が強く出ている音でしたね」

●そして完成した『B-2 UNIT』はその過激で前衛的な内容から大きな反響を呼びました。

「そうかな。アルバムが発売された頃は、ぼくはPASSの仕事で忙しかったのであまり人に訊く機会はなかったんですが、当のYMO周辺も、PASSの周りにいた評論家たちからも、概して厳しい評価でした」

●そうなんですか!? 過激な一方で収録曲の「riot in Lagos」はヨーロッパでシングル・カットされてダンス・ミュージックとしても人気を呼び、その後のテクノ・ミュージックのアーティストにも大きな影響を与えました。

「クラブ・ミュージックやダンス・ミュージックに連なるものをつくっているっていう意識はぼくには当時ありませんでしたが、でもみんなが楽しく踊ってくれればいいのかなと」

●この2019年に『B-2 UNIT』というアルバムを振り返ってみて、後藤さんはどのような印象を持たれるのでしょう?

「発売された当初は、アンチ・ポップな内容ということで、決して評価が高かったという記憶はありません。むしろYMOがこれからもっと売り出そうというときに、このアンチ・ポップな作品でいいのかという周囲の感想もあったと聞きましたし、実際に言われたこともあります。ぼくとしては当時、音楽業界でのYMOや坂本くんが置かれた状況とか、アルファレコードの事情とか考慮せずに、とりあえず、PASSのレコードをつくるのと同じ感覚でやろうと思っていました」

●いろんな状況や環境にとらわれることなく?

「坂本くんに当時様々なプレッシャーがあったのは知っています。よくあの中から作品をつくることができたと、今でも感心することがあります。当時は所謂パンクの時代で、パンク然としたミュージシャンたちが内外にいたのですが、そこでも彼はもっともパンク的でそれを生きていた。彼のパッションと、その背景にある音楽的な教養が、不思議なバランスで融合したのがこの『B-2 UNIT』じゃないのかと。あのときの社会状況と、坂本くんが置かれた状況、そして世界の音楽の潮流。録音の手法や機材の過渡期であったことも含め。そうしたいろんな条件のもとだからこそ生まれた、二度と再現できないアルバムだと言っていいのかもしれません。しかも現在に至る射程を持った、普遍性のある」


坂本龍一 B-2 UNIT

アナログLP

3,700yen+tax

完全生産限定盤

MHJL-101

Sony Music Shopで購入

SACDハイブリッド

3,000yen+tax

紙ジャケ仕様

MHCL-10122

Sony Music Shopで購入

ハイレゾ配信

【96kHz・24bit】

Download / Streaming

通常配信

Download / Streaming


- 収録曲 -

アナログLP

SIDE A

  1. differencia
  2. thatness and thereness
  3. participation mystique
  4. E-3A

SIDE B

  1. iconic storage
  2. riot in Lagos
  3. not the 6 o'clock news
  4. the end of europe

SACDハイブリッド/ハイレゾ/通常配信

  1. differencia
  2. thatness and thereness
  3. participation mystique
  4. E-3A
  5. iconic storage
  6. riot in Lagos
  7. not the 6 o'clock news
  8. the end of europe