気になる洋楽~すっきり解消!あのCMで使われていた曲は?~

70s~90sのCM洋楽ヒストリーを紐解く短期連載をお届けします。

VOL.1●ビリー・ジョエル「ストレンジャー」の衝撃

VOL.1●ビリー・ジョエル「ストレンジャー」の衝撃

日本独自のシングル発売「ストレンジャー」

 語り継がれる数々の名曲に裏打ちされ「洋楽の教科書」となって久しいビリー・ジョエル。1973年のアルバム『ピアノ・マン』の成功で本国アメリカ、とりわけ地元NYではスター街道を歩みはじめていたビリー・ジョエルが、日本で一般的に大きな注目を浴びたのはデビューから遅れること5年、「ストレンジャー」のヒットによってだ。正確には「ストレンジャー」がテレビCMで使われるようになったからだ。

 アメリカから届いた旬なヒット曲「素顔のままで」(’78年2月全米3位)を含むアルバム『ストレンジャー』を携えた’78年3月の初来日公演が大成功したことで、日本独自のシングル発売が米CBSから許可された。来日公演でも客席の反応が良く、日本人好みの哀愁感漂わせた口笛のイントロから一転、ダンサブルなポップ・ナンバーは『サタデー・ナイト・フィーヴァー』のダンス・フィーヴァー・ムーヴメントのなかで好意的に受け止められた。アルバムからの本命ヒットを確信したCBS・ソニーは’78年5月にEPシングル「ストレンジャー」の発売に踏み切った。同時期に、本国アメリカではアルバムからの2ndシングル「ムーヴィン・アウト」(’78年5月全米17位)がヒット中だったことを考えると、アメリカと足並みを揃えることを当然とする洋楽プロモーション時代ではまさに異例中の異例の戦略だった。

VOL.1●ビリー・ジョエル「ストレンジャー」の衝撃

ビリー・ジョエル
『ストレンジャー』
1978年

 哀愁のメロディ「ストレンジャー」はリスナーからの電話リクエストが放送回数を左右する有線放送から火がついたが、決定的となったのはテレビCMでの起用だった。SONYのステレオラジカセ「ZILBA-P」シリーズのCMに「ストレンジャー」が使われたのだ。16cmウーファーと5cmツイーターの2ウェイ4スピーカーを搭載。発売当時のステレオラジオカセットの最高峰機種はFMラジオからのエアチェック・ブームを追い風に発売当初からヒット商品の兆しをみせていた。「ストレンジャー」が効果的に流れるなかでのキャッチコピー「音楽を楽しむならこれからはステレオ」はお茶の間、とりわけ新しいモノに敏感な中高生を刺激した。
 それまであまり見たことがなかった高級感漂うラジカセ、ブラウン管に映し出される大人びた感じのCM、そこに昨日までは聴いたことがなかった洗練されたサウンドが流れていた。SONYの広報部には問い合わせが殺到した。「誰?」「ビリー・ジョエル?」「あ、<素顔のままで>?」。電話の広報担当は胸を張って応対した。「お客様。この曲は<ストレンジャー>です。CBS・ソニーから日本独自でシングル発売しています」。





BILLY JOEL「The Stranger」Audio(1977)


Monsterピンク・レディー vs Strangerビリー・ジョエル

 ビリー・ジョエルのシングル「ストレンジャー」は、ビー・ジーズの「恋のナイトフィーヴァー」とオリコン洋楽チャート史に残る熾烈な1位争いを展開し’78年7月から10月にかけて「ストレンジャー」が12週、「恋のナイトフィーヴァー」3週の1位を不連続で分け合った。しかし、本当の意味で「ストレンジャー」が歴史に残る洋楽ヒットと言われているのは、もはやそのヒット土俵が歌謡曲メインの総合チャートだったからだ。
 有線放送、ラジオ番組のオンエア、そしてついにベストセラー商品の仲間入りしたSONYラジカセ「ZILBA-P」CMの露出の追い風に乗って「ストレンジャー」は7月17日総合チャートでついにトップ10入りの8位にランクイン。その後も4位→3位→3位→3位と上昇し続け、’78年8月21日付けオリコン総合チャートで最高2位まで到達。
 ついに総合チャートで王手をかけたが、この時、首位を独走していたのが人気絶頂ピンク・レディー「モンスター」だった。歌謡界の“怪物”の前にあと一歩およばなかったが、洋楽としての異例の50万枚という特大セールスを記録。「ストレンジャー」は、この年の年間総合チャートで堂々24位にランクし、年間洋楽No.1セールスをマークした。ちなみに年間総合1位は約200万枚のセールスを誇ったピンク・レディーの最大のヒット「UFO」。周知、こちらも“日清焼そばU.F.O.”のCMでお馴染みのお茶の間ヒット・ソングだった。

VOL.1●ビリー・ジョエル「ストレンジャー」の衝撃

ビリー・ジョエル
『オネスティ』
1979年

「オネスティ」の温もりはチョコホット!?

 ビリー・ジョエルは『ニューヨーク52番街』(’78年)から印象的なピアノではじまるバラード「オネスティ」を3枚目のシングルとしてカットした。日本ではネッスルチョコホットのCM曲として「オネスティ」をシングル発売。CMナレーションのキャッチコピーは「一杯の青春。僕のチョコホット」。ブラウン管から響き渡るビリーのエモーショナルな歌声はまたもやお茶の間の話題となった。本国よりも日本での知名度のほうが圧倒的に高かったことから‘85年の2枚組LP『ビリー・ザ・ベスト』日本国内盤のみに「オネスティ」が収録されたほど。「オネスティ」はビリー・ザ・バラードの本命として今も多くのファンに愛されているが、世の中の“誠実”を問うクールな曲に反して往年の日本のリスナーがこの曲に抱く“温かさ”の所以はチョコホットに他ならない。
 二度のCM起用で全国区にその歌声が知れ渡ったビリー・ジョエル。優れた楽曲ぞろいのベストセラー・アルバム『ストレンジャー』(オリコン3位)、『ニューヨーク52番街』(同8位)で、「60年代洋楽のビートルズ」に次ぐ「70年代洋楽のビリー・ジョエル」の名を欲しいままにすることとなる。


そして、♪雨の降る夜はBilly Joel~

 ‘81年4月16日木曜夜。TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』。連続第1位に輝く寺尾聰が「ルビーの指環」を歌う姿を(ニヤリ)、視聴率40%に裏打ちされる多くの家族がブラウン管で釘付けになっていたころ、日本武道館ではビリー・ジョエルのコンサートが行われていた。’80年に最も売れた洋楽アルバム(オリコン6位)『グラス・ハウス』を引っ提げた3度目の来日公演は、ビリー史上最も勢いのある来日ステージとして語られることが多い。同じく『ザ・ベストテン』で高田みづえがクリスタルな微笑みで歌った「私はピアノ」。♪雨の降る夜にはビリー・ジョエル~は80年代洋楽シーン主役も変わらずビリー・ジョエルであることを作者の桑田佳祐は示唆していたのかもしれない。『ビリー・ザ・ベスト』がオリコン洋楽アルバム・チャートで13週連続1位を独走していた'85年夏、ブラウン管からはLOOK「シャイニン・オン 君が哀しい」が流れていた。♪忘れようSing a song of BILLY JOEL~。





BILLY JOEL「Honesty」(1978)


 ビリー・ジョエルの「ストレンジャー」「オネスティ」の洋楽CMヒットの成功は80年代にさらなる発展をとげる。宝焼酎<純>のCMソング「クリスタル・ジャパン」デヴィッド・ボウイ(’80年)、ニッカ・ウィスキーのCMソング「今宵焦がれて」ロッド・スチュワート(’81年)など国内のみのシングルリリースまでにとどまらず歌っている本人もCMにも出演するという日本独自の洋楽CM文化が築かれようとしていた。そのことは80年代の洋楽ヒットの雛形のひとつとなるが、KING OF POPと言われたあのスーパースターの事実上の日本のお茶の間デビューとも決して無縁ではなかった…Don’t stop ‘til you enough!? [続く]


文/安川達也(otonano編集部)

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