西寺郷太 It's a Pops

NONA REEVES西寺郷太が洋楽ヒット曲の仕組みや背景を徹底分析する好評連載

第27回 ダリル・ホール&ジョン・オーツ 「マンイーター」(1982年)【後編】

第27回 ダリル・ホール&ジョン・オーツ 「マンイーター」(1982年)【後編】

―― (【前編】からの続き)ホール&オーツの「マンイーター」は前奏からインパクトがありました。

西寺 あのリン・ドラム「LM-1」を使ったミニマムなイントロのリズムを聴けば、一瞬でこの曲がモータウン・サウンドへのふたりからの「80年代的」オマージュであることがわかると思います。ただ70年代末から、80年代初めにはスタジオ技術が進歩したことと関係して、どちらかというと大作アルバム文化も極まっていた気がします。'73年生まれの僕はその辺りが実は一番弱いんですが。

―― ピンク・フロイド『ザ・ウォール』(’79年)、REOスピードワゴン『禁じられた夜』(’80年)、スティクス『パラダイス・シアター』(’81年)、AC/DC『バック・イン・ブラック』(’80年)、ジャーニー『エスケイプ』(’81年)、フォリナー『4』(’81年)、エイジア『詠時感/時へのロマン』(’82年)……まさにロック・グループの大ベストセラー時代。

西寺 ですよね。実はリリース当時小学校低学年だったと言うタイミング的なものもあると思うんですが、今、名前が出たすべてのバンド、後から聴き直すにも割と早くソウル・ファンになった自分には少しサウンドが仰々しく感じて敬遠するようになってしまったものばかりで。ホール&オーツはモータウン・ミュージック、3分間ポップと正面から向き合い、シンセサイザーやドラムマシーンを駆使しながら80年代に再構築した立役者なんで後追いすることでハマれたんですが。




DARYL HALL & JOHN OATES「Maneater」(1982)

 ウォークマンやMTVの浸透もあると思うんですが、重厚なコンセプト・アルバムも良いけれど、60年代のように心地よくグルーヴィーな3分間を楽しもうよ!って。モータウン再評価。その直後に発表されたフィル・コリンズのシュプリームスのカヴァー「恋はあせらず」はこの流れのダメ押しになったと思いますね。元を辿れば、彼こそプログレッシヴ・ロック・バンドの雄ジェネシスのドラマーなわけですからね。小難しい変拍子や組曲も本当は得意なフィル・コリンズが、英国からわかりやすいモータウン再解釈を提示したことは多くの黒人ミュージシャンにも衝撃を与えたのでは?と。マイケル・ジャクソンもフィルのソリッドでソウルフルなハイトーン・ヴォイスをすごく褒めてるんですよね。

―― 「マンイーター」が’82年12月に全米1位、フィル・コリンズのカヴァー「恋はあせらず」が’83年1月に全英1位、2月に全米10位でした。

西寺 ありがとうございます(笑)。ほぼ同じ時期にラジオから白人のベテラン達による「モータウン再評価」フレイヴァーがあふれたことは興味深いですよね。’81年にMTVが開局していますから、ホール&オーツの「プライベート・アイズ」「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」「マンイーター」のミュージックビデオはケーブルテレビを通じて白人家庭のお茶の間に届いていたわけで、その流れで日本にも彼らの音楽は浸透した、と。マイケルの「ビリー・ジーン」が初めてMTVで放映されたのが’83年春。そこから「スリラー 現象」が巻き起こり、'84年初頭に世界で一番売れたアルバムになるわけですから、この’81~’82年の頃のホール&オーツのモータウン再評価の貢献と、その後の影響は計り知れないものがあると思いますね。

第27回 ダリル・ホール&ジョン・オーツ 「マンイーター」(1982年)【後編】

ダリル・ホール&ジョン・オーツ
『H2O』
1982年
SONY MUSIC


―― 「マンイーター」が収録されたアルバム『H20』の再発ライナーのなかでもダリル・ホールがその頃のことを振り返って「本当に素晴らしかった。僕たちがやってきたことが正しいと証明されたのだから」と語っていますね。その後の影響も?

西寺 アプローチやスタイルは違えどその流れはビリー・ジョエル『イノセント・マン』(’83年)、ワム!『メイク・イット・ビッグ』(’84年)などに続いていくわけです。そして決定的なのはスティーヴィー・ワンダーの「パートタイム・ラヴァー」(’85年)ですよね。

―― あ、なるほど。

西寺 「マンイーター」からは3年のインターバルがあるんですが、「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」に対するマイケルの返答が「ビリー・ジーン」だとするならば、「パートタイム・ラヴァー」は「マンイーター」に対するスティーヴィー・ワンダーからの返答か、と。僕はホール&オーツが「ニセモノ」だと言われながら生み出したブルー・アイド・ソウルが黒人ミュージシャン・サイドに逆輸入され、伝言ゲーム、キャッチボールのように発展し解釈が広がったことこそが「80sポップ」の本質だと思うんですね。だから僕らがいま「80sポップ」という言葉を口にする時、そのスタート地点は他でもないダリル・ホール&ジョン・オーツが投げたボールなんじゃないかな、と思っています。

―― 一方で、よくメディアが発表する歴代ベストアルバムのなかにホール&オーツの作品はほとんど選ばれていないですよね。あまりにも大衆的でメッセージ性も薄いことも無縁じゃないと思うんですけど、口惜しいところはありますよね。

西寺 アルバム単位での実験という視点でみれば『BIG BAM BOOM』(’84年)は時代を先取りした作品だったかもしれませんね。これまた僕は少し遅れて聴いたんですが。当時NYのストリートで生まれたヒップホップをいち早くポップに表現したのも彼らだったんだな、と。

第27回 ダリル・ホール&ジョン・オーツ 「マンイーター」(1982年)【後編】

ダリル・ホール&ジョン・オーツ
『BIG BAM BOOM』
1984年
SONY MUSIC


―― 『BIG BAM BOOM』は革新的なアルバムでしたよね。

西寺 いわゆるブルーアイド・ソウルとヒップホップの中間をいくようなサウンドで。20年ほど前からRHYMESTERの宇多丸さんと仲良くしていて、一緒に「80’s Night」ってDJイベントもしてたんですが、僕より4歳年上の宇多丸さんはこのアルバムが15歳で衝撃だったとよく仰るんですよね。まだヒップホップというジャンルが一般層にまでは浸透していなかった頃。

―― RUN D.M.C「ウォーク・ディス・ウェイ」のオーバーグラウンドでの大ヒットの2年前ですもんね。

西寺 『BIG BAM BOOM』をカッコいいと思った当時の若者は、もうポップやソウルを飛び越えてヒップホップに未来を感じてしまったのかな、と……。’84年秋、『BIG BAM BOOM』を発表した時にホール&オーツは時代の先に辿り着いてしまった、と言いますか。ギリギリ白人サイドにとどまっていた「ポップ感」の行く末に、リズムだけが広がる「ヒップホップ」の深い海があった。ちなみに『BIG BAM BOOM』のプログラミング的デジタルな音世界を、よりミニマムに進化させソウルフルなヴォーカルを乗せた結晶がジョージ・マイケルの『FAITH』(’87年)。

―― ほう。

西寺 いわば、ダリル・ホールが引き返した道を、ダリルよりも17歳も若い英国出身のジョージ・マイケルがある意味無邪気に飛び越えて空前の大成功を収めた。ジョージは、その後痛い目にも合うんですが。第二回でも話しましたが、つまり売れすぎただけでなく賞レースでもソウル部門まで獲得してしまった結果、尊敬し、憧れていた黒人ミュージシャン、例えばグラディス・ナイトやパブリック・エナミーからテリトリーを犯すなと袋叩きに合ってしまったんです。




DARYL HALL & JOHN OATES「Out Of Touch」(1984)

―― 佐野元春も同年春にやはりNYのストリートカルチャーを投影した日本初のロックとヒップホップの融合アルバムといわれる『VISITORS』を発表していますね。

西寺 あ、そういえば、この頃、佐野さんは松田聖子さんにシングル「ハートのイヤリング」(’84年11月発売)を提供して話題になりましたね。作曲クレジットはHolland Roseで、Hall&Oatesをもじったペンネームですね。

―― ホール&オーツにしろ佐野元春にしろ時代の音に敏感なアーティストほどこうやって時代検証するとその先見力に唸らされますよね。

西寺  ホール&オーツは『BIG BAM BOOM』をピークにこれ以上、デジタル的で攻撃的なサウンドを使った黒人音楽を追い求め続けると自分たちのアイデンティティは消えると、自らブレーキをかけた気がするんですね。行き着くところは「結局、ヒップホップが最高」となる今の未来を予見したのかもしれません。その自制の反動が、憧れだったテンプテーションズのデヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックと共演した『ライヴ・アット・ザ・アポロ』(’85年)。その結果、「80sポップ」のトレンドセッターとして座を意図的に後進に譲っていくわけです。さっき安川さんが見せてくれたチャート表が顕著ですね。このあとにマドンナ、ホイットニー・ヒューストン、そしてジャネット・ジャクソンのディーヴァ時代が始まります。

’81年04月「キッス・オン・マイ・リスト」 全米1位
’81年07月「ユー・メイク・マイ・ドリームス」全米5位
’81年11月「プライベート・アイズ|全米1位
’82年02月「アイ・キャント・ゴー・フオー・ザット」全米1位/全米R&B1位/全米ダンス1位
’82年05月「ディド・イット・イン・ア・ミニット」|全米9位
’82年12月「マンイーター」全米1位/全米ダンス18位
’83年04月「ワン・オン・ワン」全米7位/全米R&B 8位
’83年06月「ファミリー・マン」全米6位
’83年12月「セイ・イット・イズント・ソー」全米2位/全米ダンス1位
’84年04月「アダルト・エデュケイション」全米8位/全米ダンス21位
’84年12月「アウト・オブ・タッチ」全米1位/全米R&B 24位/全米ダンス1位
’85年02月「メソッド・オブ・モダン・ラヴ」全米5位/全米21位/全米ダンス18位
      上記はすべてビルボードチャート参照(編集部調べ)

―― 「メソッド・オブ・モダン・ラヴ」がヒットしている頃に「ウィ・アー・ザ・ワールド」のレコーディングでしたね。

西寺 『BIG BAM BOOM』で一種の飽和状態に陥ったホール&オーツは、その反動からか「ウィ・アー・ザ・ワールド」を始めとする’85年に行われた一連のチャリティ・プロジェクトに軒なみ参加しています。7月に行われたLIVE AIDでは地元フィラデルフィアJFKスタジアムで行われたステージに立っていて……




MICK JAGGER「Just Another Night[Live Aid 1985]」(1985)

―― あ、Zoomのモニターに映っている郷太さんの後ろの壁に貼ってあるミック・ジャガーの『シーズ・ザ・ボス』ポスター。まさに「ジャスト・アナザー・ナイト」ではホール&オーツのふたりも参加してましたね。

西寺 (後ろを振り返りながら)あ、これね(笑)。ミックとホール&オーツのLIVE AID共演のことは正直忘れてました(笑)。……さっきの話の続きなんですが。ヒップホップの出現も関係しているんですが、’85年以降はメロディ、コーラス、歌詞というそれまでの「ポップス」のフォーマットを、強いメッセージとリズムの快楽が超越しちゃうんですね。わかりやすいのは「ウィ・アー・ザ・ワールド」の半年後に発表された同じチャリティ曲「サン・シティ」で。この話もよくするんですが。

―― ブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドのスティーヴ・ヴァン・ザントが提唱者となったアパルトヘイト政策を激しく非難するアーティスト達によるプロテスト・ソングですね。豪華な面々にも関わらずあまりにも反対メッセージが強烈なことと、ジャンル限定が出来ずにラジオ・オンエアが敬遠され全米38位に終わった曰く付きのチャリティ・シングル。

西寺 こっちはヒップホップに肉薄していて、マイルス・デイヴィス、RUN D.M.C.、アフリカ・バンバータ、ジョージ・クリントン、ルー・リードらも名を連ねるロック、ジャズ、ヒップホップ、レゲエ、アフリカ音楽のまさにボーダレス。この翌年にエアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」をフィーチャーしたRUN D.M.C.の大ブレイクへの足がかりともなる流れですよね。ちなみに「ウィ・アー・ザ・ワールド」「サン・シティ」の両方に参加しているアーティストはブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、ホール&オーツだけなんですよ。このあたりがミュージシャンの在り方としても面白いと思うんですよね。ダリルは’86年にソロ・アルバム『ドリームタイム』を発表しタイトル曲は後の90年代J-POPの教科書みたいな存在になるんですが……。あ、これはまた別の機会にします(笑)。

―― ‘88年にはホール&オーツは桑田佳祐とコラボレーションしていますね。

西寺 ホール&オーツの日本人アーティストへの影響力は本当に大きくて。もちろん僕も含めてですが、その理由は結局「憧れている黒人音楽そのもの」にはなれない、じゃあどうする?と言うことに尽きると思います。ダリル・ホールの歌唱はソウル特有のタメではなくジャストか勢いよく突っ込む。節回しは黒人的なんだけど、その「ニセモノ」と呼ばれたポイントこそが逆に見ればスピード感に繋がっていて。「ロックン・ソウル」って本人達は言ってましたが。

―― ほう。

西寺 (後ろを振り返りながら)他方、このミック・ジャガー『シーズ・ザ・ボス』はストーンズとは線を引き、ビル・ラズウェルやナイル・ロジャースを共同プロデュースに迎えていますけど、英国人の彼は素直に憧れの黒人音楽そのものをソロで追求したわけです。でも蓋を開けてみれば、そんなには面白い結果には繋がらなかった。ポスター額装しておいてなんですけど(笑)。例えば、ホール&オーツが目指し、創り上げたプラスティックなブルー・アイド・ソウルをカレーに例えるならば、香辛料だけで作った本場そのもののインドカレーではなく、日本人が咀嚼した上での「ちょっとスパイシーなカレーライス」と言いますか。

―― 出た(笑)。郷太さんお得意の食べ物例え話。伝わりますよ。

西寺 (笑)。黒人音楽を愛した日本人からみれば、さらなるマトリョーシカみたいな話ですが例えば僕自身の話として西寺郷太も、あくまでも日本人として独自に咀嚼するしかない、別の味わい、自分にしか出せないテイストを出すしかないんだな、と言う現実を教えてくれた存在と言いますか。

―― ホール&オーツは昔も今も自分たちに正直すぎるアーティストという評価は昔も今も変わりませんね。

西寺 SARSが世界中で流行した時に、ダリルは全世界を移動してライヴ活動を行うことが難しくなるといち早くインターネットを使った発信を試みたんです。2003年のことですね。自身のお気に入りのミュージシャンを自宅に招き、ジャム・セッションしてインターネット配信するという素晴らしいコンセプトの音楽番組『ライヴ・フロム・ダリルズ・ハウス』をスタートさせて。まだネット回線も遅い今から17年も前のことですよ。昨今の主流になりつつあるリモートLIVEの先取りで。やっぱりこの人は本当に音楽が好きなんだなと感心しましたし、先見性のある真のミュージシャンだと思いますね。

―― 理想的なアーティスト?

西寺 僕が個人として、ミュージシャンのなかでいちばん憧れる音楽人生を探せと言われたたらまっさきにあげるのがダリルですね。試行錯誤の末に、巨大な商業的な成功を収めた上で、その栄光やスターとしての虚像に溺れることもなく今も好きな音楽と真摯に向き合い楽しみ尽くす姿は理想です。

―― ところで。いちばん最初に話をしてくれた「80’s リズム関ヶ原」ですが。戦国時代の武将に見立てるとホール&オーツは誰ですか?

西寺 そこを聞きますか(笑)。ん~難しいですね。マイケルやプリンス、ジャネット・ジャクソンを信長・秀吉・家康の超主役級ラインとするならば、あえてひとりを当てはめるなら美濃の斎藤道三かな。名も無い境遇から「黒人音楽の潮流にも影響を与えた」下克上大名。フィラデルフィア発の遅咲き、叩き上げ。……え、美濃のマムシで油売り? あまりにも無理やりすぎて恥ずかしいです、質問が急すぎますよ(笑)。


聞き手/安川達也(otonano編集部)


西寺郷太、6年ぶりのソロ・アルバム『Funkvision』を7月22日リリース!
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第27回 ダリル・ホール&ジョン・オーツ 「マンイーター」(1982年)【後編】

DARYL HALL & JOHN OATES
「Maneater」


Release:October 31,1982
Recorded:December,1981/Electric Lady Studios(NY)

Songwriter:Sara Allen/Daryl Hall/John Oates
Producer:Daryl Hall/John Oates
Label:RCA Records

Daryl Hall – Lead Vocal&Backing Vocals,Keyboard,Synthesizers
John Oates – Lead Guitar,Backing Vocals,Drum Machine
G. E. Smith – Rhythm Guitar,Backing Vocals
Tom Wolk – Bass
Mickey Curry – Drums
Charles DeChant - Saxophone


 ダリル・ホール&ジョン・オーツの通算13枚目のアルバム『H2O』のオープニングを飾った先行シングルで、’82年12月18日付けから4週連続全米チャートで1位(’83年度年間7位)を記録したグループ最大のヒット曲。ジョン・オーツが当時住むNYアパートの12階で生まれた。ふたりが新作のアイデアを模索している時に、ジョンがレゲエのリズムから思いついたメロディにダリルが歌詞を付け、モータウン・オマージュなイントロをのせている。MTV全盛期、肉食系女性を誇張したミュージックビデオは反女性的と抗議を受けた。アルバム『H2O』は’83年1月15日付~4月16日付まで15週連続全米3位(年間4位)を記録しダブルミリオンに輝く彼ら最大のセールスを記録。『H2O』は日本でもオリコン総合9位を記録するホール&オーツの代表作となった。ジャケット写真は’82年11月1日に発売された国内盤シングル(ドーナツ盤)「マンイーター」。

プロフィール

西寺郷太
西寺郷太 (公式サイト http://www.nonareeves.com/Prof/GOTA.html)
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成しバンド、NONA REEVESのシンガーとして、’97年デビュー。音楽プロデユーサー、作詞・作曲家として少年隊、SMAP、V6、KAT-TUN、岡村靖幸、中島美嘉、The Gospellersなど多くの作品に携わる。ソロ・アーティスト、堂島孝平・藤井隆と のユニット「Smalll Boys」としての活動の他、マイケル・ジャクソンを始めとする80年代音楽の伝承者として執筆した書籍の数々はべストセラーに。代表作に小説『噂のメロディ・メイカー』(’14年/扶桑社)、『プリンス論』(’16年/新潮新書)など。

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