落語 みちの駅

第九十九回 「正蔵さんの「蛸坊主」――4月の朝日名人会」
 4月20日(土)の朝日名人会で林家正蔵さんは「蛸坊主」を演じました。出番は中入り後。寄席にたとえれば、いわゆるクイツキとヒザガワリを兼ねる、なかなか難しい位置です。

 秋に真打昇進を控える柳家ほたる「湯屋番」、若手実力派・金原亭馬治「風呂敷」のあとの、しかも柳家権太楼「蛙茶番」、五街道雲助「妾馬(長講)」に挟まれての高座とは――、演出サイドから見てもさぞ“やりにくかろう”そのもの――。

 出演依頼の際に、そういうポジションなのだけれど、と言いましたら「蛸坊主」をやりましょうと即答してくれたのです。

 なあに、どんなポジションだって確かな抜け道はあるものさ。そんな気概が感じられて、やっぱりそうか、と私はひそかに思いました。ここ2、3年、正蔵さんは静かに、しかし着実に脱皮していると私は見ているのです。

「蛸坊主」という噺は上方系で、戦前の東京によく来演した二代目桂三木助(1943没)がのちの八代目林家正蔵(1981没)に教えたもの。売僧(まいす)と呼ばれる強請(ゆすり)坊主の噺は珍しいのですが、芝居にはわりあいよくある構図です。一癖ある人物戯画で、何年か前までの穏やかで素直な正蔵さんの語り口には適わないタイプでしたが、今の正蔵さんは違います。料理屋に言いがかりをつける不逞の僧侶の姿が見えるようでした。

 正蔵さんのどこがどう変わったという話ではありません。人間は全くの別人にはなれない――、なれたとすれば、どちらかが全く嘘の人間だと私は思います。

 一味変わったというだけで充分。善人ばかりでなく悪人も描けるようになった、というだけでも長足の進歩でしょう。

 2020年代の正蔵さんはもう一段二段、コクと風味を増して一流の古典演者になっていることでしょう。めでたい春です。


著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。