西寺郷太 It's a Pops

NONA REEVES西寺郷太が洋楽ヒット曲の仕組みや背景を徹底分析する好評連載

第12回 ブルース・スプリングスティーン 「グローリィ・デイズ」(1985年)【前編】

第12回 
ブルース・スプリングスティーン
「グローリィ・デイズ」(1985年)【前編】



―― さて、郷太さん。前回ビリー・ジョエル「素顔のままで」の最後に予告したとおり今回の「It’s a Pops」は、ブルース・スプリングスティーン楽曲の話を聞かせていただきます。ジョージ・マイケル、マイケル・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、TOTO、ビリー・ジョエルと回を重ねてきたなかで、ブルース・スプリングスティーンはNONA REEVES西寺郷太のイメージからはいちばん遠い位置にいるアーティストの印象です。

西寺 確かに(笑)。ブルース・スプリングスティーンというアーティストの魅力を話すのであれば、いま僕の横に座っていらっしゃるソニー洋楽のブルース担当の白木さんが最適ですし……。というか、いま僕に質問している安川さんご自身が大ファンのブルースを取り上げたいだけじゃないんですか(笑)。……え! おふたりでブルース・スプリングスティーンの故郷ニュージャージー州アズベリー・パークに旅行したことがある?……え!! 家の門まで行った!? ピンポンした(笑)!?!? その話詳しく聞きたいんですけど(笑)。ま、でも、この連載「It’s a Pops」では、あくまでこれまで視点の当たりづらい角度、「西寺郷太的」な偏った視点で深掘りするってところにあるので……。白木さん、安川さんに教わりつつ、頑張ります(笑)!

―― 楽しく行きましょう! ブルース・スプリングスティーンの音楽キャリアはまもなく半世紀。レコードデビューした70年代から現在までメインストリーム・ロックの第一線を歩むアメリカを代表するアーティストだけに、名曲、ヒット曲の数も多いです。気になるお題、その曲名は……。

西寺 「グローリィ・デイズ」です。当時だけでセールス1000万枚ですか。80年代にアメリカで最も売れたロック・アルバム『BORN IN THE U.S.A.』(’84年)に収められていた曲ですね。アルバムからの5枚目のカットだったと思うのですが、シングル盤として発売されたのが……。

―― 1985年5月です。伝説となった代々木オリンピック・プールでの初来日公演4月10日の1か月後ですね。本国アメリカでの『BORN IN THE U.S.A.』の熱狂を日本のファンも体験することが出来たブルースファンにとってはいちばんHOTな時期だったと思います。

西寺 1985年4月に来日、ということは「ウィ・アー・ザ・ワールド」が大ヒットしていた、まさにそのタイミングだったということですか……。USA for Africa は個人的に強い思いがあるので『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』という本も書いたぐらいなんです。ブルースは、スーパースターが集結したあの夜の主役のひとりでしたからね。もう少し後の来日なら、英語教師だった僕の父親がブルースのメッセージに興味津々だったんで大阪城ホールに一緒に観に行ってた可能性もありますね……。ただ当時小学校6年生のマイケル・フリークの僕にとって、自分が好きだったデュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、マイケル、プリンス、ワム!みたいな文脈からみると少しブルースは「大人のミュージシャン」過ぎたというか……。とはいえ「USA for Africa」がもしも仮に柔道の団体戦だとすれば、ブルースはドキュメンタリー番組でも白人チーム「現役世代の大将」として登場して、圧倒的な存在感を放っていましたから、なんかともかくすごいなこの人っていうのはありましたね。

―― マイケル・ジャクソン「アナザー・パート・オブ・ミー」[中編]でも語ってくれましたが、43人の全米オールスターズで構成されたUSA for Africaプロジェクトは、黒人アーティストが白人アーティストに勝った瞬間だったと。

西寺 僕は、そう思ってます。作詞・作曲がモータウン出身のライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソン。プロデューサーは名匠クインシー・ジョーンズ。歌い出しは、前年のロス五輪のセレモニーでも歌った「アメリカの顔」ライオネル・リッチー。インタビューしたこともありますが、ともかく彼の顔はめっちゃ細いです(笑)。意外に長くはなくて、単に比率的に横が細い。どうでもいい情報ですけど(笑)。


第12回 
ブルース・スプリングスティーン
「グローリィ・デイズ」(1985年)【前編】

DVD(2枚組)
We Are The World
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ハピネット



 USA for Africaの「ウィ・アー・ザ・ワールド」が収録されたのは、1985年1月28日の深夜でした。わずか2年前、1983年初頭までは、状況はまったく違ったんです。比較的富裕層の白人家庭が契約していた有料チャンネルだったことから、MTVは「ロック」のチャンネルだ、という今となってはナンセンスな理由で、彼らは黒人アーティストの楽曲を基本的に排除していました。ただ、マイケルの『スリラー』からの「ビリー・ジーン」と「今夜はビート・イット」、それからプリンスの『1999』からのシングル群のビデオがまず状況を一変させたんですね。で、1983年はまさに『スリラー』現象の年。世界中で売れに売れまくり、ギネスブック記録も塗り替えて。そして、駄目押しが、1984年のプリンス主演映画『パープル・レイン』でした。そもそも「ウィ・アー・ザ・ワールド」は、1984年のクリスマスに英国とアイルランドの若いアーティストが集結して、BAND AIDなる臨時グループを結成して、アフリカ飢餓救済のチャリティ・ソング「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」をリリースしたことから火がついた動きでした。ただイギリスの場合はアートスクール出身の若いバンド仲間中心のコネクション、友人同士の繋がりでフットワーク軽く「やろう!」って言いやすかったんですが。エンタテインメント業界が細分化されたアメリカでは到底無理だって言われていたんですね。

―― ソロのパート録りはドキュメンタリー映像から緊迫感が伝わってきました。

西寺 そうなんです。全権を握ったクインシーはプロジェクトの意義が「調和」だと分かっていました。仮に「座組み」としては、黒人アーティスト中心のコラボレーションだったとしても、白人アーティストにも平等に見せ場を用意することを忘れませんでした。そんな難しい状況で、今日の主人公ブルース・スプリングスティーンは彼にしか出来ない重要な役目を全うしたんです。ちなみにブルースの後ろに控えていた「名誉大将」が、人見知りなのか常にスタジオにぎこちないムードを撒き散らしていたボブ・ディラン(笑)。彼も強い想いで現場に馳せ参じたとは思うんですが、これまで彼は即興で「こんなふうに歌って欲しい!」って言われたことないと思うんですよね。だから、めちゃくちゃ所在無さげで(笑)。スティーヴィー・ワンダーに歌い方を教わっているシーンはある種ドキュメンタリーのハイライトですよね。スティーヴィーが歌う「ディラン風の歌唱アレンジ」を覚えさせられるディランの姿は何度見ても、え? それで大丈夫なのか? と思いますね(笑)。でもあの時のディランは43歳ですから、今の自分のほうが歳上なのがちょっとビックリしますけど(笑)。

―― 後半部分で白人ロック系シンガーたちが素晴らしい働きをしましたよね。

西寺 はい。この曲の土台はもちろん、マイケルとライオネルのモータウン・チームが作りましたが、陰の功労者のひとりはジャーニーのスティーヴ・ペリーだと思っています。ブルース・スプリングスティーン → ケニー・ロギンスからバトンを受けた2番のサビ終盤で聴かせるハイトーン・ヴォイスとフェイクは、ジャーニーにそれほど詳しくない僕でも「ウィ・アー・ザ・ワールド」のすべてのヴォーカリストの中で彼が屈指のメロディメイカーであり歌唱もズバ抜けていることを見せつけてくれています。ある種、ジョージ・マイケルにも近いシンガーとしての異様な天才性というか。大衆性も兼ね備えたすごい人ですね。で、バトンを受けたダリル・ホールがこれまたソウルウルでため息をつくほど美しい“モダン・ヴォイス”を聴かせてくれるんです(笑)。


第12回 
ブルース・スプリングスティーン
「グローリィ・デイズ」(1985年)【前編】

BOOK
『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』
西寺郷太・著 / 2015年

NHK出版新書はこちら



 『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』でも触れていますが、ジャーニーとダリル・ホール&ジョン・オーツ。いわゆる80年代初頭のアメリカのポップ・シーンを牽引した天才白人メロディメイカー&シンガーがライオネル&マイケル作曲へ敬意を評しながら、お互いがブルー・アイド・ソウル的な解釈したマイク・リレーの美しさは本当に鳥肌が止みません。ダリルは黒人音楽に憧れながらもリズムをタメれなくて、割といつも突っ込んじゃうんですが、その性急さもまた彼の味で。スティーヴ・ペリーやジョージ・マイケルが「天才」型だとすれば、僕はダリル・ホールを「努力家」型だと思ってます。逆に言えば、だからこそダリルの歌唱にグッと来ちゃうんですよね。で、そんな最高の舞台のなかで大役を任されたのが白人ロックの“ボス“ことブルース・スプリングスティーンでした。

―― 実際にブルースは2番のサビ以外も出番が多かったですね。

西寺 そうなんです。1番のサビは黒人代表のマイケル・ジャクソンが務め、2番のサビは白人労働者階級の英雄ブルース・スプリングスティーンからスタート。これだけでもドラマティックだったのですが、最後のリフレインで黒白の現役大将対決としてスティーヴィー・ワンダーとブルース・スプリングスティーンが実現したんです。クインシーが編集で対峙させたと言ったほうが正しいかもしれませんが。この時に驚いたのが、割としゃがれ声で怒鳴ってるだけみたいに思えていたブルースの圧倒的な美メロメイカーぶりですね。4分52秒あたりから始まる、先攻スティーヴィーと後攻ブルースの掛け合い。スティーヴィーのグルーヴィーで縦横無尽のメロディ展開、音域も広く使った天才的歌唱を受けるかたちとなったブルースは、♪We are the World,We are the Children と、しばらくは短いフレーズでキャッチャーのように受けて、ある種単調に吸い込むような、引き気味のシャウトに徹するんですね。ただ、5分33秒からの ♪There's a Choice We're Making から後攻のブルースが短い瞬間ですが本領発揮してゆく、このあたりの彼のセンスがわかってくると鳥肌ものなんですよ。抑揚豊かに意図的にシンプルでメルヘンチックにも思える歌詞とメロディに深みを与えることに成功してるんです。子供の頃はブルース・スプリングスティーンと言えば、やたらめったらめちゃくちゃ叫んでる、ってそう思ってたんですね。ふざけて学校で真似したり(笑)。

―― ブルース・スプリングスティーンは肩出しデニムの格好でよくモノマネされてましたね(笑)。

西寺 でも、プロになった今、プロデューサーの視点で見ると、ブルースが判断した「あくまでも黒人アーティスト主導である」という意味で全体の役割分担、楽曲全体の構造を考えた上でのフェイクが本当に凄いな、と。根本的にブルースって「とてつもなく頭が良くて、心から優しい」人なんだと思うんです。だからこそ、あんな風に歌える……。振る舞える……。言ってみれば、あの後半パートは、ジャズマンのクインシーからけしかけられたソロ・バトルのようなもんなんですよ。ジャズとヒップホップって似てると思うんですけど、基本「戦い」なんですよね。で、「ウィ・アー・ザ・ワールド」もその要素が強い。黒人と白人とどっちがすごいか、それぞれが証明してみろ!って。特に後半は、そういう意図でクインシーは歌割りを組んでます。まず全員でコーラスした後は、ボブ・ディランとレイ・チャールズの「伝説」合戦。もちろんクインシーも「白人アーティストを潰そう」だなんて思ってもみなかったはずですが、それにしても白人優位のアメリカン・ポップス史の中で評価が低かった黒人アーティストの凄さを伝えたい、とは思っていたはずなんで……。





USA for Africa「We Are The World」(1985)

 で、ブルースに用意された対戦相手は、天真爛漫に音楽で遊ぶ史上最強の天才、スティーヴィー・ワンダーでした。普通勝てないです(笑)。そもそも盲目のスティーヴィーにとって、肌の色での差別だったり確執なんてナンセンスなわけで。スティーヴィーの凄さは、もっと極限に迫る宇宙的な真実や愛を歌えるところにあります。「目で見えることで起こる差別、良く考えてみてよ。意味ないよね」っていう。ただ、ブルースは違う。ブルースは現実の辛さ、酷さを「直視」することで、スーパースターの地位まで上り詰めた男です。ブルースはあの時、完全に加害者の立場、本人にはまったく責任はないんですが、アフリカから奴隷を連れてきたり、植民地化したり、という数百年の白人文化の象徴、ヨーロッパからアメリカ「U.S.A.」、覇権国が主導する資本主義、贅沢な社会、そのズレ、こぼれ落ちた者の痛みみたいなものを背負って「大将」役を引き受けたんだと思うんですよね。あそこで、変に勝って「俺たちの方が凄い!」ってなってもいけない微妙な立場なんです。意識的に負け戦、敗軍の将をひとりで引き受けてあの楽曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」に立ち向かっているわけです。最後に登場する白人シンガーとして。

―― あ、ちょっと感動しました。そんなことは考えたこともなかった……。だとすると彼の非凡さをスタジオで目の当たりにしたスティーヴィー、ライオネル、マイケル。時の黒人3強はびっくりしたでしょうね。

西寺 クインシーは特に驚いたと思いますよ。「ウィ・アー・ザ・ワールド」という7分台の長い曲の起承転結のいちばん難しい部分、「転」をブルースは受け身を取りながら感動的な場面に昇華させ、結果的に白人も黒人も一致団結しようと想いも乗せて「結」へと繋げたんです。「U.S.A.」という言葉の良くも悪くも代弁者のような立場だったわけです。特にあの時期のブルースは。時の最大の流行歌「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」を力強く歌っていたわけですから。USA for Africaのメンバーのなかでは実際に誰よりも大きな声でしたしね(笑)。ただ、そのド迫力のヴォーカルだけじゃない、ソングライターとしての繊細さは彼に関していちばん感じる部分です。


第12回 
ブルース・スプリングスティーン
「グローリィ・デイズ」(1985年)【前編】

CD
ブルース・スプリングスティーン
『BORN IN THE U.S.A.』

(1984年)
Sony Music Shop



―― あ、なんかブルースのいちファンとして嬉しくなってきました。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は当時アメリカ人でさえも誤解した曲でしたからね。あの曲は、行き場のないベトナム帰還兵の母国に抱く誇りと卑下が同居する屈折感情を描いたアメリカへの警告的な楽曲でした。“どうしようもない国だけどこの地で生まれたんだから受け止めて生きていくしかないんだよ”。そんな叫びだったはずです!

西寺 ですよね………。先ほど話したんですが、1984年は、プリンスの『パープル・レイン』の年でもありましたが、一方ではブルースの『BORN IN THE U.S.A.』が大爆発した年でもありました。『BORN IN THE U.S.A.』がリリースされたのは6月、ロス五輪が7月から8月にかけてで。安川さんが仰ったように歌詞をどこからどう読んでもシングル「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は、ベトナム戦争帰りの兵士の苦悩を歌ったある種の皮肉に満ちた反戦歌であり、弱者に寄り添った反戦歌なわけですが、サビの「アメリカに生まれた!」って叫ぶ部分だけしか聞かない人々やお茶の間に完全に誤解されたというか……。

―― そうなんです。時は米ソ冷戦。ロス五輪を抱えるロナルド・レーガン政権下の“強いアメリカ”のなかで、国粋アンセムと捉えることができるコーラス部分♪Born in the U.S.A.~だけがクローズアップされ合衆国賛歌としてひとり歩きをはじめました。有名なアルバム・ジャケットでもブルースは星条旗を背負っているのではなく国旗と対峙していたにも関わらず、です。

西寺 戦意高揚のような真逆のメッセージとして受け入れられてしまった。まさかって話ですよね(笑)。ブルースからしたら。え?みたいな(笑)。彼にとって過去最大の暴風雨のような成功でしたが、やっぱりグローバルな大ヒットって勘違いから生まれるというか。真摯なブルースにとって許しがたい誤解だったでしょうね………。





Bruce Springsteen「Born in the U.S.A.」(1984)

―― さらに、ビジュアル優位な盛況MTV時代。映画『ランボー』のシルベスター・スタローンような筋肉隆々な腕を突き上げる映像インパクトはさらに誤った解釈を与えてしまうことになるんです。結局ブルースはこの時自ら作り上げたタカ派的なイメージを払拭するのにここから何年も時間を費やすことになるんです。時の大統領ロナルド・レーガンは選挙戦の時にこともあろうにブルースの曲を…………あ、すみません。インタビュアがしゃべり過ぎですね(恥)。

西寺 大丈夫です(笑)。「ウィ・アー・ザ・ワールド」でも、彼は労働者階級の代表として、アフリカ飢餓を救うためのチャリティの動きに全身全霊で取り組んだと思うんですよね。やっぱり安川さんはブルース・スプリングスティーンになるといつもより熱いし、僕も「ウィ・アー・ザ・ワールド」になると熱過ぎてすいません(笑)。でもこの熱さが80年代ブルースの熱心なリスナーが共有していた空気だったと思いますよ。僕もこの夏にあらためてブルースの自伝を読みました。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」はあれぐらい明解で仰々しいアレンジにしたことによって多くも誤解もあったけれど、元気いっぱいのアレンジでやり切ったことをブルース自身は後悔してないんですよね。ハロウィンのとき玄関先に子供たちが自分を真似した赤いバンダナを巻いて家の玄関に来て、ドア開けたら、めっちゃ楽しそうに♪Born in the U.S.A.を歌って帰って行ったと。「そういう歌じゃないんだけど……」って思ったらしいんですけど(苦笑)。アメリカで生まれてアメリカ人として外国で戦ったんだってことにも最終的な希望を持ちたいという気持ちもあのアレンジと直接的な歌詞に繋がっているんですよね。


第12回 
ブルース・スプリングスティーン
「グローリィ・デイズ」(1985年)【前編】

EP(廃盤)
ブルース・スプリングスティーン
『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』

(1984年)



―― 『BORN IN THE U.S.A.』のオープニングを飾る表題曲「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」がアルバムからの3枚目のカット・シングルとして全米チャートの最高9位を記録したのが‘85年1月19日付。先ほど郷太さんも仰ったように同月28日、「ウィ・アー・ザ・ワールド」録音時はブルース・スプリングスティーンは良くも悪くもアメリカンロッカーの象徴でした。

西寺 あ、お得意のチャート情報を今回はここで入れてきましたね(笑)。そういえば「ウィ・アー・ザ・ワールド」が録音されたロサンゼルスA&Mスタジオに登場したときのブルースもカッコいいんですよね。録音が行われた1985年1月28日は第13回アメリカン・ミュージック・アウォードの生中継が行われていました。その模様をテレビで観ながらUSA for Africaスタッフはスタジオ準備に勤しんでいました。「司会のライオネルが到着しちゃうぞ! 急げ!!」ってな感じで。授賞式会場は同じくロサンゼルスのシュライン・オーディトリアムだったので、授賞式後に時のスーパースターたちが続々とA&Mスタジオに集まってくる構図となったのです。車の移動で5~10分ですかね。

―― 東京だと当時の大晦日「レコード大賞」会場から「紅白歌合戦」NHKホールまでの移動みたいな感じですね。それにしても、ロサンゼルスの移動距離まで熟知しているとは。

西寺 あ、僕、実際にロサンゼルスに行ってシュライン・オーディトリアムからA&Mスタジオまで車で走ってみたことがあるんです(笑)。まさに何分かかるか知りたくて。運転してくれたのは、当時、USA for Africaにも参加したジャクソンズの次兄ティト・ジャクソンさんで。楽しかったですね! 思っていたよりも近くて、混雑状況にもよりますけど5~10分ですね。多くのスターたちがリムジンやハイヤーで駆けつけるなか、ブルースはボーン・イン・ザ・U.S.A.ツアーのニューヨーク州シラキュースのキャリアー・ドーム公演を終えて飛行機でロサンゼルスに飛んで来た。で、なんと空港から自分でTOYOTAのセダン、白いコロナじゃなかったかな? レンタカーを運転してスタジオに向かっているんですよね。ボディガードもマネージャー同行もなし。スタジオ向かいの駐車場に自分で車を停めて、門から歩いてA&Mスタジオの建物に入ってきている。普通に。

―― 信じられない(笑)。

西寺 このあたりが、白人労働者階級の英雄である所以で、ブルース・スプリングスティーンというアーティストの魅力なんでしょうね。当時からこのシーンだけでも「この人、なんかすげーな」って。2日間のスタジアム公演を終えたニューヨークからロスまで徹夜移動するだけでも大変なのに。運転手もいないって(笑)。もうメチャクチャ疲れているはずだから誰か運転しますって言えよ! 危ないよ!! って言いたくなるくらい(笑)。で、また徹夜で歌録りであの熱唱ですから。彼自身はここで強靭なタフさを見せつけてくれましたね。結果的に強行で移動したブルース・スプリングスティーンがいなければ白人ロック勢は劣勢、強いては「ウィ・アー・ザ・ワールド」プロジェクトは黒人側にバランスが偏り過ぎてあれほどの成功してなかったと僕は思っています。よかったらもういちど「ウィ・アー・ザ・ワールド」をチェックしてみてください。「ウィ・アー・ザ・ワールド」で白人ロッカー最高峰のストーリーテラーを誇示したブルース・スプリングスティーンはその年に『BORN IN THE U.S.A.』から5枚目となるシングルをカットします。お待たせしました。それが「グローリィ・デイズ」です(笑)! [後編]に続く

聞き手/安川達也(otonano編集部)
都内ホテル“アメリカンBBQ“にて



第12回 
ブルース・スプリングスティーン
「グローリィ・デイズ」(1985年)【前編】

BRUCE SPRINGSTEEN「Glory Days」

Release:May 31,1985
Songwrite:Bruce Springsteen
Produce:Bruce Springsteen, John Landau, Chuck Plotkin, Steven Van Zandt
Record:Toby Scott
Mix:Bob Clearmountain
Label:Columbia

Bruce Springsteen:Lead Vocals, Lead Guitar, Acoustic Guitar
Roy Bittan:Piano, Synthesizer
Clarence Clemons:Saxophone, Percussion
Danny Federici:Hammond Organ, Glockenspiel
Garry Tallent:Bass Guitar
Steven Van Zandt:Acoustic Guitar, Mandolin
Max Weinberg:Drums


ブルース・スプリングスティーンの7thアルバム『BORN IN THE U.S.A.』からの5枚目のシングル・カット曲で1985年5月31日に北米発売され、8月3日付ビルボードHOT100で最高5位(年間67位)、同メインストリーム・ロックで最高3位を記録した。日本では国内盤(写真)が6月21日に発売。大盛況となった4月のジャパン・ツアー直後とあってジャケットには「歴史を変えた日本公演大成功記念盤」と印字されている。







Bruce Springsteen「Glory Days」(1985)



第12回 
ブルース・スプリングスティーン
「グローリィ・デイズ」(1985年)【前編】

アルバム・コレクションVol 1. 1973-1984
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第12回 
ブルース・スプリングスティーン
「グローリィ・デイズ」(1985年)【前編】

アルバム・コレクションVol. 2 1987 - 1996
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プロフィール

西寺郷太
西寺郷太 (公式サイト http://www.nonareeves.com/Prof/GOTA.html)
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成しバンド、NONA REEVESのシンガーとして、’97年デビュー。音楽プロデユーサー、作詞・作曲家として少年隊、SMAP、V6、KAT-TUN、岡村靖幸、中島美嘉、The Gospellersなど多くの作品に携わる。ソロ・アーティスト、堂島孝平・藤井隆と のユニット「Smalll Boys」としての活動の他、マイケル・ジャクソンを始めとする80年代音楽の伝承者として執筆した書籍の数々はべストセラーに。代表作に小説『噂のメロディ・メイカー』(’14年/扶桑社)、『プリンス論』(’16年/新潮新書)など。

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