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落語 みちの駅

第八十六回 3月30日、小三治師匠の楽屋
 本来ならば十日前であるべきレポートですが、少々公表をためらう心理があって本日になりました。

 3月30日夜、国立小劇場でのこと。第597回落語研究会、トリの柳家小三治さんは「千早振る」を演じました。

 え、「千早」がトリネタ? などと反射的に言いたがる人が大勢いるのは昔からのことです。

 むろん、私はそんなことを言いたいわけではありません。そんなことならば十日遅れの理由はまったくないのでありまして、「千早振る」で落語研究会のトリをとり納めて不足のない小三治師匠に喝采を贈るのみ。こういう事例に出くわす幸運はめったにないのです。

 楽屋外の廊下にいたら、楽屋内の小三治さんから声がかかりました。終演後すぐに帰ってしまいたい私が十分近く居残っていたのは珍しいことではあったのですが。

 小三治さんはまず今年初めに全9巻が完結した速記「柳家小三治の落語」(小学館文庫)に寄せた私の演目解説についての礼の言葉を口にしました。それほどの名解説ではないつもりですが、年の功とでもいうのか、以前よりは簡潔に、わかりやすく書けるようになって、論じないで済ませる解説になってきた――、そんな自覚はあるのです。

 振り返ってみりゃ、いろいろあったよね、ありがとう。小三治さんは珍しく私に握手を求めました。小三治さんが握手をする人だった、ということを45年の交流で私は初めて知りました。私にとっては「千早振る」がトリをとることよりずっとずっと大きな驚きでした。

 まだ私の知らない柳家小三治がいる。これぞ大物の証と思うのは通俗的ですかね。

 この日、小三治さんはマクラで主治医に「あと10年は大丈夫」と太鼓判を押されたことを話しました。どちら様もおめでとう存じます。これからもまだ知らない小三治さんに会えるかもしれません。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。