落語 木戸をくぐれば

第89回(最終回)「志ん生と寿命」
 五代目古今亭志ん生は明治二十三年(一八九〇)に生まれ昭和四十八年(一九七三)に没した。平成の今日から振り返れば格別に長生きでもないが、天寿を全うした人だといえるだろう。



 志ん生といえばすぐに若い頃の放蕩三昧と貧乏暮らしが引き合いに出される。金の散財を伴う放蕩とその金がない貧乏との両立にはまともに考えればひどい矛盾があって、世間が事後に貼り付けるレッテルというものの杜撰ずさんな性格が露わに見えるようだ。



 不遇であったことは事実で、それがために慢性的に貧乏、たまに入る金も世帯を潤す手前で酒や遊びに流れてしまう、というのが実情だったのだろう。芸人の懐具合を給料暮らしの勤め人や堅気の商人・職人と同じように捉えてしまうと絵に描いた餅のような芸人像が生まれてしまう。



 十六回も改名を繰り返したのを借金逃れの〝変装″あるいは名義上の夜逃げと解釈すれば話はおもしろいが、なんとか売れたい足掻あがきの結果と見るべきだろう。関東大震災に続く世界恐慌のあおりで昭和初期の芸人は志ん生に限らず辛酸を舐めていた。



 諸門を遍歴した志ん生が一時先代、つまり四代目志ん生門下に属したのが運命の契機となった。四代目が早死にし、志ん生の生活も次第に改まって金原亭馬生に、そして五代目の志ん生にと上昇軌道に乗った。ダメな芸人のままでは志ん生になれるわけもない。志ん生襲名の頃、世の中は大陸での戦争によって束の間の好景気に踊っていた。



 代々の志ん生が早死になので襲名に二の足を踏んだという説もある。初代と四代目が四十代、二、三代目も五十代で死んでいる。



 ただし三代目までは平均寿命がひどく短かった江戸期に生まれた昔の人だ。その分を取り戻すように美濃部孝蔵の五代目志ん生は八十路を越え、志ん生短命説を破ったが、長男の十代目金原亭馬生が五十代で、二男の三代目古今亭志ん朝が六十代で他界して、妙なところで差し引きがついた。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。