落語 木戸をくぐれば

第85回「志ん生がやらなかった志ん朝の噺」
 複数の噺が融合して一つの噺になることもあれば、同じ根っこから二本の幹が伸びて、それぞれが独立した樹のようになる噺もある。『小言幸兵衛』の一部が『搗屋つきや幸兵衛』という噺に分化したのは後者の好い例だ。



 戦後の落語界でネタ(演目)の多さを誇ったのは五代目古今亭志ん生と六代目三遊亭圓生。志ん生は『搗屋幸兵衛』を、圓生は『小言幸兵衛』を専売のように演じて、互いの抵触はなかった。



 父・志ん生譲りで『搗屋』を演じていた古今亭志ん朝が『小言』にも意欲を覚えて圓生に伝授を乞い、直伝は受けられなかったが、圓生の高弟・圓弥に教わって、圓生から「どうぞおやりください」と言われたという話は以前に記した。



 それは噺の継承のあるべき、オーソドックスなプロセスだ。志ん朝は継承のプロセスとスタイルをとても大切にする人だった。一方に「芸は盗むもの」という考え方もあって、聴き覚えや、録音録画からの習得も悪とはいえない。それでも志ん朝は筋目を重んじ続けていた。



『崇徳院』と『粗忽の使者』は、志ん生がおそらくやらなかった演目だ。戦後の大看板で『崇徳院』を売り物にしていたのは三代目桂三木助、『粗忽の使者』は五代目柳家小さんだ。志ん朝はどのようなルートを踏んで得意ネタにしたのか。



『崇徳院』は若い頃の修行仲間だった七代目春風亭柳橋から受け継いでいる。柳橋は当初、三代目三木助の愛弟子で、三木助の演目をかなり継承していた。柳橋が前名柏枝の時代に、志ん朝とはだいぶネタの交換をしたという。



『粗忽の使者』は志ん朝の兄弟子だった金原亭馬の助の得意ネタだった。それを教わったのにちがいない。馬の助は三代目三遊亭小圓朝という古老から教わったと思われる。



 戦後、小さんの『粗忽の使者』が目立ったために小圓朝系は少し影を薄くしていたが、この噺は元来が三遊系のネタなのだという。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。