落語 木戸をくぐれば
第7回「圓生の日常ことば」
「ええ、圓生でございます」
電話をかけたときも、かけられたときも、六代目三遊亭圓生はこんなふうに口火を切った。
「あのね、本日のスタジオの件ですがねえ、ちょっとその、急な来客がありまして。いいえいエ、大した話があるてエわけじゃアないんですがね、先さき様さまが久方振りに上京して邪が非でもきょうにという・・・・・・。あたくしア録音があるからと断ったんですがね、『それではお出かけになる前に』てえン。・・・・・・そこまで言われてますてエと、どうもはや・・・・・・。きょうのきょうで誠に申し訳ありませんが、少ウし遅なわり・・・・ますので、し・とつ御承知下さいまし。え?いえいえ、そんなには……。せいぜい三十分ぐらいのもんでげすよ・・・・。そんなにあなた、長居をされた日にゃア、へへ、冗談いっちゃいけない、芸人はおまんまの食い上げでげすよ……。ではし・とつ、よろしくお願い申し上げまして・・・・・・」
一流のはなし家は誰もそうだが、日常会話と高座の話芸が別人ではない。そこが役者のせりふと根本からちがうところだろう。
それにしても圓生の日常話は独特のものだった。古いことばばかりでなく、この人だけか、と思えるような不思議な用語が頻繁に入る。「遅なわる」なんて、落語の中でも滅多に使わない言い方をよくしていた。そして、「でげす」のような下世話と、折り目正しい明治の東京ことばとがないまぜになっていた。
東京の落語家は江戸弁の流れを汲む東京弁を使うものと一般に思われているが、一概にそうともいえない。落語家がいまでも日常に「べらぼうめ」を連発すると思ったらまちがいなのだ。
江戸前の名優・六代目尾上菊五郎(現・七代目の祖父)が新聞記者に何かを言うと、その談話記事の一人称が必ず「あっし」になって、六代目自身が目を丸くしていた、と未亡人から聞いた覚えがある。
「あっし」は六代目の体の中になかったことばなのに、通俗な江戸前趣味で勝手にその人物の言語像を造り上げてしまう。むかしからメディアはフィクションをするものらしい。
落語家の、いや、いわゆる江戸っ子なるものの使うことばが、おしなべて職人風にイメージされ、落語家自身さえそんな錯覚をもちはじめた昭和の末に、三遊亭圓生の日常ことばには、商人あきんども風流人も、遊び人もいた。茶屋の女将も、御家人ごけにんも御隠居も、入れ替わり立ち替わり顔をのぞかせていたようだった。
幅広い役柄をどれも高い水準で柔軟にこなしたゆえに圓生は「昭和の名人」と言われた。はなし家きっての芸の虫は、日常会話の中でさえ、自然の稽古をしていたのだろうか。
電話をかけたときも、かけられたときも、六代目三遊亭圓生はこんなふうに口火を切った。
「あのね、本日のスタジオの件ですがねえ、ちょっとその、急な来客がありまして。いいえいエ、大した話があるてエわけじゃアないんですがね、先さき様さまが久方振りに上京して邪が非でもきょうにという・・・・・・。あたくしア録音があるからと断ったんですがね、『それではお出かけになる前に』てえン。・・・・・・そこまで言われてますてエと、どうもはや・・・・・・。きょうのきょうで誠に申し訳ありませんが、少ウし遅なわり・・・・ますので、し・とつ御承知下さいまし。え?いえいえ、そんなには……。せいぜい三十分ぐらいのもんでげすよ・・・・。そんなにあなた、長居をされた日にゃア、へへ、冗談いっちゃいけない、芸人はおまんまの食い上げでげすよ……。ではし・とつ、よろしくお願い申し上げまして・・・・・・」
一流のはなし家は誰もそうだが、日常会話と高座の話芸が別人ではない。そこが役者のせりふと根本からちがうところだろう。
それにしても圓生の日常話は独特のものだった。古いことばばかりでなく、この人だけか、と思えるような不思議な用語が頻繁に入る。「遅なわる」なんて、落語の中でも滅多に使わない言い方をよくしていた。そして、「でげす」のような下世話と、折り目正しい明治の東京ことばとがないまぜになっていた。
東京の落語家は江戸弁の流れを汲む東京弁を使うものと一般に思われているが、一概にそうともいえない。落語家がいまでも日常に「べらぼうめ」を連発すると思ったらまちがいなのだ。
江戸前の名優・六代目尾上菊五郎(現・七代目の祖父)が新聞記者に何かを言うと、その談話記事の一人称が必ず「あっし」になって、六代目自身が目を丸くしていた、と未亡人から聞いた覚えがある。
「あっし」は六代目の体の中になかったことばなのに、通俗な江戸前趣味で勝手にその人物の言語像を造り上げてしまう。むかしからメディアはフィクションをするものらしい。
落語家の、いや、いわゆる江戸っ子なるものの使うことばが、おしなべて職人風にイメージされ、落語家自身さえそんな錯覚をもちはじめた昭和の末に、三遊亭圓生の日常ことばには、商人あきんども風流人も、遊び人もいた。茶屋の女将も、御家人ごけにんも御隠居も、入れ替わり立ち替わり顔をのぞかせていたようだった。
幅広い役柄をどれも高い水準で柔軟にこなしたゆえに圓生は「昭和の名人」と言われた。はなし家きっての芸の虫は、日常会話の中でさえ、自然の稽古をしていたのだろうか。