来福百年に一度の福よ来い。
“これぞ講談!”
五代目寶井馬琴講談全集
五代目寶井馬琴講談全集
  • CD15枚組 三方背BOX入り 解説書付
  • 品番:DQCW-3162~3176
  • 価格:¥27,000+税

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昭和講談界の至宝、五代目寶井馬琴没後30年。円熟の70代にスタジオ録音に通い詰め残した名演名調子をCD15枚に集大成。演題の豊富さもさることながら、「音吐朗々」と評された豪快にして明快な読み口はまさにこれぞ“講談”。*1982年LP15枚組で発売された『講談 寶井馬琴』の復刻です。

五代目寶井馬琴 五代目 寶井馬琴

明治36年11月9日~昭和60年10月26日(享年82)。愛知県知多郡生まれ。
大正14年四代目宝井馬琴に入門、琴桜。後に琴鶴に改名。昭和5年異例のスピードで真打昇進。昭和8年五代目宝井馬琴襲名。昭和43年講談協会の初代会長となる。昭和45年文化庁芸術祭賞。昭和46年御前講談。昭和53年芸術選奨文部大臣賞を受賞。五代目一龍斎貞丈、七代目一龍斎貞山とともに昭和の講談界の三羽烏と言われる。

ダイジェスト試聴
DISC1:徳川四戦記の内 三方ヶ原合戦━三十六段の物見 より
【特別寄稿】日本語の美の極致京須偕充

講談は落語より古い話芸だ。落語は江戸後期の産物、講談は江戸中期にまでさかのぼる。演じ方も興行方法も落語は講談を手本にしたと言ってよい。

だが語り描こうとする世界とその精神の基本は大きく違っている。落語が架空を前提として庶民の哀歓を描き、笑いを展開の原動力とするのに対して、講談は「太平記読み」から出発していて、史実を語り聞かせ、実在した偉人や武将の活躍を、また彼らの感動的な逸話を聞かせて感動を生むことにある。

まさにNHK大河ドラマと題材もねらいもぴったり一致していて、歴史ものを好む日本人の心は講談によってつちかわれた日本的DNAの賜物と言えるのではないか。

最近の大河ドラマと講談の違うところは封建的視点の有無だけだ。講談は昔のままに悪びれず男の正義と倫理観を貫ぬいていて、ヒロインに頼って現代に迎合することがない。

家を、城を、藩を、国を動かす精神的パワーは、とくに乱世においては、民主主義や家族愛からは生まれにくい。一命を投げ打ち、犠牲となるのも辞さない覚悟がいる。そういう時代が再来してほしくはないが、そういう視点を手放しては、歴史ドラマを身にしみて味わうことなどできまい。

敗戦のショックで日本人は講談的精神美学に対して及び腰になり、多くの講談名人の死去が重なって、しばらく講談が冬ごもりさせられていたのは残念ながら事実だった。


時世が変わったからといって何もかもが百八十度変わってしまうものでもない。そんな世渡りをする人間が多くいるのは事実だが、人心、文化、そして芸能はきのうの自分を裏切るようなことはしない。まして三百年以上の歴史をもつ講談は節操ある人が演じ、聞いて楽しむものだった。講談で古きよき秩序のあった時代を回想する人も多くいて、戦後のラジオでは、講談は浪曲、落語に迫る勢いを持っていた。

だが、昭和三、四十年代に戦前派の講談名人が相次いで他界し、新たな入門者が激減して、にわかに講談に冬が到来した。これは浪曲も同じだった。映画でテレビで時代劇は衰えていないのに、「水戸黄門」も「大岡越前」も「清水次郎長」も“赤穂浪士”ももとは講談だというのに、テレビ時代劇を茶の間で楽しむお手軽文化が講談のお株を奪ったような状況が長く続いた。


昭和も末の一九八〇年代初め、落語では六代目三遊亭圓生も八代目林家正蔵(彦六)もいなくなって明治生まれの大物が絶えた。だが講談には明治生まれの超大物・五代目寶井馬琴がまだまだ現役で活躍していた。馬琴は明治三十六年(一九〇三)の生まれ。若くして頭角を現わし、昭和戦前には大先輩たちと肩を並べる人気者となってラジオで活躍した。その成功のカギは誰にもわかりやすい言語構成、朗々たる声とメリハリの効き、そして明るく朗らかな口調にあった。その点では今の時点から見ても第一人者の名に恥じない。

戦後はますます精力的に活躍し、民放ラジオ夜のゴールデンタイムで週一回、当時のベストセラー小説「徳川家康(山岡荘八作)」を数年にわたって演じ続けた。一時は政治家を志して吉田・鳩山攻防時代の参議院選挙に二度出馬、当選はしなかったが十数万票を獲得した。

この『五代目寶井馬琴講談全集』は馬琴の最晩年に一気に録音したもので、時代物、世話物、義士伝、侠客物など多彩な演目構成になっている。とくに合戦の様子を滔々と述べる「修羅場(しゅらば)」の本格的な手本はこの録音にしか残されていない。言語美の極致、ここに日本語の奇蹟を聞く思いさえある。デジタル録音で張り扇の音も鋭くとらえている。

五代目寶井馬琴は昭和六十年(一九八五)十月二十六日に他界した。今年が没後三十年にあたる。